1. 全国大会
  2. 第43回 全国大会
  3. <第1日> 10月16日(土)
  4. 第5室(2号館2階 222教室)

第5室(2号館2階 222教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
赤尾 千波

1.進歩を語り直す —— Zora Neale HurstonのTell My Horse における時間、身体、言語

  田中 千晶 : 大阪外国語大学(院)

2."Alice in Spielbergland"and "Steven in Walkerland": Reassessing Alice Walker’s The Color Purple and its Film Adaptation

  Raphaël LAMBÉRT : 津田塾大学(非)

鈴江 璋子

3.パラダイスに表象されるアメリカの夢 —— Toni Morrisonの愛の3部作について

  竹田 奈緒美 : 金城学院大学(非)

4.Beloved における幽霊と母親(母性) —— アイデンティティの攪乱

  石本 哲子 : 同志社大学(非)



田中 千晶 大阪外国語大学(院)


Zora Neale Hurstonの Tell My Horse は、これまでの先行研究においてフォークロア集に分類されているが、本発表では、Tell My Horse の ‘Foreword’ の中で、Ishmael Reed が、90年代のポストモダンの本であってもおかしくない、と指摘している点に着眼し、ハイチとジャマイカの民間信仰であるヴードゥーに関するこのテクストに、どのようにポストモダン性を見いだすことができるのかを、時間、身体、言語を手がかりとして考察していく。

Tell My Horse において、過去から、現在、未来へと向かう直線的な時間の流れが撹乱された語りの中で、ハイチにおける生から死への流れもまた一方通行ではないことが、生きている死者と呼ばれるゾンビによって明らかにされる。ヴードゥーの儀式の中で、霊は反復と変容を繰り返し、オリジナルなきコピーとなって、身体から身体へと移っていき、もともとはそれが属していた身体を支配している力を持っている。また、テクストに挿入された「取り憑かれた」男やゾンビの写真は、科学技術の成果によって、その科学では説明不可能なヴードゥーの真正さを証明するものであるが、複製であるその写真は、もはや真正さを失って再生産されたシミュラークルにすぎない。さらに、写真や、文字、付録として掲載されている楽譜は、このテクストが、目の前で繰り広げられる儀式をありのままに表象することの不可能との闘争の場であることを示す。

一方で、このテクストは、ハイチやジャマイカについて書き記したものでありながら、同時に、それらと対照をなすイメージを有するものとしてのアメリカが、断片化されて書き込まれている。例えば、エンパイア・ステート・ビルは、ゾンビが生者と死者の間に存在するハイチの対極に置かれている。進歩した国としてのアメリカと、ハイチやジャマイカは、アメリカ人のヴードゥー司祭であるドクター・リザーの身体において融合する。霊に「取り憑かれた」経験を語るドクター・リザーの身体は、英語を使いながら、その声音の中にアフリカがあるという、グローバルな空間となることが示されていく。 このようなテクストのポストコロニアル性は、「私」が、ハイチやジャマイカではアメリカ人であり、アメリカに戻れば彼らと同様に周縁化されたアフリカン・アメリカンであるという位置に立っていることによって生み出される。

本発表では、Tell My Horse において、サブライムとしてのヴードゥーが、上流階級と黒人大衆、科学と迷信、生と死、善と悪、白人と黒人という二項対立を突き崩していく中で、アメリカの進歩が語り直されていくことを明らかにしていきたい。


Raphaël LAMBÉRT 津田塾大学(非)


Although Alice Walker’s 1982 Pulitzer Prize winner The Color Purple has become a milestone in contemporary American literature, it has spurred fierce debates. Controversies developed further in 1986 when famed Hollywood director Steven Spielberg adapted The Color Purple to film. As expected, Spielberg’s adaptation of The Color Purple was severely criticized, either because, like the book, it was perceived as insulting to African American men, or because it modified, toned down, or left aside key elements of the novel such as Shug and Celie’s homosexual relationship. Although Spielberg may have come short of recreating Walker’s story in all its complexity, he nonetheless did justice to the novel and even improved on some of its qualities? most particularly the notion of enchantment so central to The Color Purple.

With The Color Purple, Alice Walker joined a family of writers who use the fairy tale tradition to express the need for the reformation of social characters. Walker embraced this tradition to convey her “womanist” (black feminist) views and to suggest an alternative to the social status quo. Through the character Celie, who epitomizes the suffering of black women victimized by domestic violence and a cruel, white-dominated society, Walker creates a world in reverse where poor, molested black women can triumph. What motivated Spielberg, however, is not the fabulous destiny of a pitiable black girl relayed with feminist undertones, but the well-known, much admired tale of the self-made (wo)man that punctuates Walker’s novel.

This reflection endeavors to show that behind Walker’s progressive, militant, and sometimes subversive discourse, lies a conservative view of the world informed by essential American values such as Capitalism and the Calvinist doctrine of predestination. The celebration of such values is not reprehensible per se, but The Color Purple suggests that if Celie could make it, her community should have been able to do likewise. This logic implies that African Americans alone are accountable for their endemic problems and this is why, this reflection argues, The Color Purple tends to border on historical revisionism: it seems to exculpate America for the sordid conditions of living into which a significant part of the African American community is still thrust.


竹田 奈緒美 金城学院大学(非)


Toni Morrisonによる3つの小説Beloved (1987)、Jazz (1992)、Paradise (1998) は「愛の3部作」と呼ばれ、Beloved には母の愛、Jazz (1992) には男女の愛、そして Paradise には神の愛が描かれている。そして、これらの小説は奴隷制度に始まり1920年代のハーレム、そして公民権運動に至るアメリカの黒人にとって歴史的な場面を舞台としている。3部作を締めくくるParadise には、父権的な契約によって神に選ばれたと信じる者だけが入ることの出来るパラダイスとして建設された黒人だけの町ルービィの失敗と、愛と信仰を失い絶望したコンソラータが修道院の庭で故郷の神に見つけてもらい、パラダイスを夢見る過程がパラレルに描かれている。

Paradise において、ルービィに起こった禍の原因として町の男たちは修道院の女たちを襲撃し、殺されたはずの修道院の女たちの死体は消失する。その後女たちは再び姿を現し、エピローグにおいてはコンソラータが夢見た決して話すことのないピエダーデが歌うパラダイスの風景が描かれる、という謎めいた結末となっている。しかし、3部作における3つの小説の結末は、ビラヴィド、ワイルド、修道院の女たちがそれぞれ姿を消すという点で共通する。さらに、この女たちが姿を消すのは「庭」においてである。Morrisonは、Beloved において黒人からホームを奪った奴隷制度をスウィート・ホームという名前に皮肉を込めて描き、Jazz においてはジョーにドーカスへの愛をリンゴの味を知りエデンの園を出て行くアダムをなぞらえさせ、Paradise では失われた楽園、パラダイスとは何かを問いかけている。

Paradiseで描かれたパラダイス建設という黒人共同体の夢は、新大陸に上陸し、神の国を建設しようとしたピューリタンの夢と重ね合わせることができる。公民権運動に参加した経験を持ち、よその町から赴任してきた牧師マイスナーは、非暴力主義による公民権運動のリーダーとなり、1963年のワシントンの大行進において「私には夢がある」と演説を行ったマルティン・ルーサー・キング・ジュニア の暗殺により、黒人たちが見たアメリカの夢が叶わないさまを嘆く。その一方で、コンソラータは、修道院の女たちに大声の夢想によって自分たちの過去の悪夢を共有させ、心の傷を癒す。女たちはコンソラータが語るパラダイスの光景に憧れて、コンソラータが語るパラダイスの夢をも共有するのである。

このように、Paradise は黒人共同体の夢だけではなくアメリカの夢を表象するパラダイスを描いている。新大陸が発見され、「丘の上の町」を築こうとしたヨーロッパからの移民たちの夢は、神からの「使命」をスローガンに西へと土地を所有し、成功することを意味した。アメリカという国が建国以来必要としてきた国民を一つにするための夢は、アメリカ文学がテーマとして抱える矛盾を内包し、その矛盾は Paradise の結末における死体の消失と復活の中に見出すことが出来るのである。 本発表では3部作に共通する「庭」と「夢」を手掛りに、Paradise のエピローグは、アメリカの「夢」を表象するパラダイスとして提示されたものであることを実証したい。


石本 哲子 同志社大学(非)


本発表では、Toni MorrisonのBeloved を主に(1)幽霊の物語(2)母娘の愛の物語として読みながら、Beloved とSetheがアフリカ系アメリカ人に課せられた歴史的な状況の下で、彼らの各々のidentityを確立し、保つことを切望しているにも拘らず、その自己を形成する境界線が如何に曖昧で容易にかき乱されるものとなり得るかという問題を考察する。その際、「女というカテゴリーを何の疑問もなく引き合いにだす姿勢が、表象/代表の政治としてのフェミニズムの可能性を あらかじめ閉じてしまう ことだ」として、暗に異性愛主義である self-identity の概念の危険性を指摘するJudith Butlerの主張はこの小説とどのように交錯するのかを探求したい。この小説では、アフリカ系アメリカ人の女性/男性、母親/娘といったカテゴリーにおける自己の所有、治癒、結合の不可能性の問題は顕著であり、SetheとPaul Dの間の異性愛の物語は母娘の不毛な愛の物語と同じく宙吊りにされている。

第一にBelovedのidentityに焦点を当てる。Belovedとは一体何であるのか。「奴隷制の惨事を体験した若い(生身の)女性」(House)なのか「超自然の現象」(Heinze)なのか。Belovedのidentityに関する議論は多様だが、とりわけ説得力を持つのはHorvitzの解釈で、Belovedを「強力な、肉体をもつ幽霊」と称し、アフリカから奪われた何世代もの母娘の「アイデンティティの流動性」を体現し出没した多数の “Beloveds”を象徴していると考える。Belovedの流動質のidentityはまた彼女を取り巻く者たちのそれをも揺るがせにする。BelovedはPaul Dには誘惑者として彼の男性性の再起を妨げ、一方Setheには殺された娘として、彼女の母親としての自負に挑み、責め、限界に達するまで衰弱させる。

第二にSetheのidentityに焦点を当てる。Belovedが自ら殺害した娘であるという認識を得たSetheは外界から切り離された愛の空間で娘二人と共に排他的な愛の言葉を紡ぎ始める。確かに、物語る術を通じて過去の苦痛と未来への希望を連結させることで「断片化された個人が治癒し、結合へと進む」(Powell)のかもしれないが、Belovedの存在はそれを促す一方で、また脅かすものでもある。SetheはBelovedの曖昧な存在とその起源である殺害故に、自らの母親としてのidentityに対する承認を娘から得ることは絶対にできず、ここに母娘の愛の物語の破綻は明らかになる。この小説が「語り継がれる物語ではない」のだとしたら、それはBelovedが日常的な風景の中に辛うじて「幽霊」として痕跡を留めているのと同様、Setheもまた彼女の “Me? ”という言葉が示しているように、「母親」でもなければ「女」でもない名づけられぬ存在であることしかできない為である。