田中 千晶 大阪外国語大学(院)
Zora Neale Hurstonの Tell My Horse は、これまでの先行研究においてフォークロア集に分類されているが、本発表では、Tell My Horse の ‘Foreword’ の中で、Ishmael Reed が、90年代のポストモダンの本であってもおかしくない、と指摘している点に着眼し、ハイチとジャマイカの民間信仰であるヴードゥーに関するこのテクストに、どのようにポストモダン性を見いだすことができるのかを、時間、身体、言語を手がかりとして考察していく。
Tell My Horse において、過去から、現在、未来へと向かう直線的な時間の流れが撹乱された語りの中で、ハイチにおける生から死への流れもまた一方通行ではないことが、生きている死者と呼ばれるゾンビによって明らかにされる。ヴードゥーの儀式の中で、霊は反復と変容を繰り返し、オリジナルなきコピーとなって、身体から身体へと移っていき、もともとはそれが属していた身体を支配している力を持っている。また、テクストに挿入された「取り憑かれた」男やゾンビの写真は、科学技術の成果によって、その科学では説明不可能なヴードゥーの真正さを証明するものであるが、複製であるその写真は、もはや真正さを失って再生産されたシミュラークルにすぎない。さらに、写真や、文字、付録として掲載されている楽譜は、このテクストが、目の前で繰り広げられる儀式をありのままに表象することの不可能との闘争の場であることを示す。
一方で、このテクストは、ハイチやジャマイカについて書き記したものでありながら、同時に、それらと対照をなすイメージを有するものとしてのアメリカが、断片化されて書き込まれている。例えば、エンパイア・ステート・ビルは、ゾンビが生者と死者の間に存在するハイチの対極に置かれている。進歩した国としてのアメリカと、ハイチやジャマイカは、アメリカ人のヴードゥー司祭であるドクター・リザーの身体において融合する。霊に「取り憑かれた」経験を語るドクター・リザーの身体は、英語を使いながら、その声音の中にアフリカがあるという、グローバルな空間となることが示されていく。 このようなテクストのポストコロニアル性は、「私」が、ハイチやジャマイカではアメリカ人であり、アメリカに戻れば彼らと同様に周縁化されたアフリカン・アメリカンであるという位置に立っていることによって生み出される。
本発表では、Tell My Horse において、サブライムとしてのヴードゥーが、上流階級と黒人大衆、科学と迷信、生と死、善と悪、白人と黒人という二項対立を突き崩していく中で、アメリカの進歩が語り直されていくことを明らかにしていきたい。