1. 全国大会
  2. 第43回 全国大会
  3. <第1日> 10月16日(土)
  4. 第4室(2号館2階 221教室)

第4室(2号館2階 221教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
三浦 玲一

1.経験することのアポリア —— Fitzgeraldの短編を中心に

  澤﨑 由起子 : 関西大学(院)

2.F. Scott FitzgeraldのThe Great Gatsby における「緑」について

  泉澤 みゆき : 梅光学院大学(院)

加藤 光男

3.The Torrents of Spring から The Sun Also Rises へ—— プリミティビズムへの抵抗とその人種的含意

  中村 亨 : 中央大学

4.Identifying “East of Eden”: Language and Symbols in Steinbeck

  Randy Kay Checketts : 秋田経済法科大学



澤﨑 由起子 関西大学(院)


従来Kenneth EbleやJohn Kuehlが主張してきたように、Pat Hobbyものにおける三人称の語り手は、語り手による"detachment"の感覚—— ひいては、そのディタッチされた感覚から生じる"comic irony"の感覚に意識的になりやすいが、そのクーエルが引用する"Boil Some Water--Lots of It"でも生じているのは、"detachment"のみならず"commitment"の感覚である。これがEdmund Wilson以降、被追放者と追放者、マジョリティとマイノリティの視点としてIrish WASPであるフィッツジェラルドの語りの特徴とされた"double vision"でもあり、こうしたヴィジョンの従うところは、語り手とパットが語りうるハリウッドでは"Pat Hobby's Secret"のようなスタジオ・システムにおける共犯関係や、上述の短編ならば、システムに同化しているパットとそうでない他者の経験の間で生じるエスニック・クレンジングである。他方このヴィジョンが短編シリーズ全般の存在論的現象としてとらえているのは、"the victim of the very plots"としてのパットの経験、宙づりになり脱主体化された、独身の白人中年男性による主体変容の困難である。ハリウッドでのキャリアがありながらも、スタジオ内階層において昇給の見込みがなく、脚本化をめぐっては冷遇されるパットの経験とは、"Two Old Timers"で例証されるような、他者および「過ぎ去った今」としての過去との併置において、パットじしんが調停できない男性主体、先験的主体と齟齬をきたすがそれに耐え、同じプロットの中でステレオタイプを演じ(mask)、反復することで生存する経験である。

"Pat Hobby's Secret"におけるパットは、プロデューサーと共謀し、すでにシナリオの結末を頼まれていた別の作家から、その結末を盗用しようとするが、期待された報酬を失う結末=パットの秘密を迎える。この秘密とは、別の作家に成り代わった報酬に失敗するというよりは、すでに彼じしんでシナリオを発展できないジレンマであり、むしろ共犯関係が顕在化しているのは、スタジオ・システムでの彼の月並みな能力の消耗である。"Boil Some Water"においては、冷遇に激昂する中欧出身の俳優の処遇に対し、パットは理不尽さを演じるが、その正義感にはトーキー到来時に訪れた後発者への軽蔑と、現状に対する自己温存の偽装が見えるのである。本発表では、パットという男性主体がいかに生存していくかを追いつつ、「感傷的な誤謬」(Christphor Ames)を伴いながらも、平凡さへ耐性を保ち、したたかさを秘めるパットの評価を行いたい。


泉澤 みゆき 梅光学院大学(院)


The Great Gatsby の中ではgreenという形容詞が17回使用されている。特に語り手Nick がGatsbyを初めて見かける場面の、暗い海に光る” a single green light”が極めて印象的である。伝記作家Andrew Turnbullの記述によれば、Fitzgeraldが「緑」という色にこだわりのある作家だったといえる。本発表においては作者が「緑」にどのような意味を込めているのかを考察する。

はじめに、作品中には可視的な緑と不可視的な緑があることを指摘したい。例えばGatsbyの車の内装は”a sort of green leather conservatory”のようであると言っている。Nickが学生時代に列車で中西部へと帰省する際に手にしていたのは、”the long green ticket”であり、また前述の”a single green light”は可視的な緑である。一方で”green light”には、可視的な”a (single) green light”のほかに、作品中には不可視の、隠蔽された”the green light”が存在することを指摘したい。

まずこの不可視の「緑の光」は鉄道王James Jerome Hill(1838-1916)と結びつく。Hillは作者Fitzgeraldの故郷ミネソタ州セントポールの名士であり、Fitzgeraldと同じアイルランド系の成功者である。不可視の緑の光はHillの敷いた線路の上を走り、地理的終着地点セントポールへとたどり着き、さらにHillに向けられたFitzgeraldの視線によって、想像的空間アイルランドへと伸びている。

一方で、第9章の”a fresh, green breast of the new world”という箇所は、Nickの心象に浮かび上がる緑であるが、James JoyceのUlysses(1922)第1挿話の”White breast of the dim sea.”という言い回しが反響しているようにも思われる。

FitzgeraldはJames Joyceを崇拝していた作家であり、語り手NickがFitzgeraldの分身であるならば、FitzgeraldのUlysses読書体験はNickに受け継がれているはずであり、この視点からThe Great Gatsbyの導入部に着目したい。

本発表では、不可視の緑の意味するところがHill同様、Joyceの存在を通じて、アイルランドへと結び付けられていることを示し、ひいてはThe Great GatsbyがFitzgerald自身のアイルランド系アメリカ人としてのアイデンティティを強く意識した作品であることを、明らかにする。


中村 亨 中央大学


Hemingwayの文学と人種という問題をめぐって、この十年ほどの間に革新的な二つの見解が提示されている。ひとつは Ann Douglas の指摘で、彼女は1920年代のアメリカ文学における黒人文化と白人文化の相互影響を論じた著作の中で、上品なハイブロウの文化に反発していたHemingwayが、ブルースやジャズなどの黒人文化から少なからぬ影響を受けたのではないかと推測している。一方Douglas とは対照的にWalter Benn Michaels は、Hemingwayの代表作 The Sun Also Rises に異人種混交への不安・人種的純粋性への希求を読み取っている。

様々な人種が接触し交じり合う1920年代の社会状況の中でHemingwayがいかなる立場に立っていたかということに関して、対照的な二つの見解が存在するわけであるが、この人種をめぐる20年代のHemingwayの立場を考える上で注目したいのが、彼の著作の中でも従来あまり論じられてこなかったThe Torrents of Spring である。本発表では、The Sun Also Rises と、その執筆の合間に先輩作家達の著作のパロディとして書かれたThe Torrents of Spring を一対のテクストとして扱い、これら二つのテクストとThe Torrents of Spring においてパロディの対象となっている複数の先行テクストとの関連を検証する。

その結果浮き彫りになるのは、同時代の黒人礼賛とプリミティビズムの流行に反発したHemingwayが、自分のテクストの形式と内容から人種的な含意を払拭しようとしたということである。

形式面における人種的な含意の払拭とはすなわち、限定された易しい語彙と単純な構文からなる彼の口語的な文体が、黒人の言葉と類似性を持つものと見なされないようにするということである。パロディの対象にされたSherwood AndersonとGertrude Steinの口語的文体は、黒人の話し言葉を模倣した面があったが、そうした先輩作家とHemingwayは一線を画そうとしたのだ。

また内容面においては、The Sun Also Rises というインポテンツの男性の話を、同様にインポテンツをモチーフとしたAndersonのDark Laughter にはっきり示されているような、性的に虚弱化した白人によるプリミティブな活力への憧れを表現した物語として読まれることを拒絶しようとしたと言える。

しかしながら、自分の文学から人種的な含意を払拭しようとしたにもかかわらず、あるいはそうした企てゆえに逆に、Hemingwayが選択した文学的な立場は特定の人種的意味合いを帯びることになる。本発表ではその人種的意味合いを最終的には明らかにしたい。


Randy Kay Checketts 秋田経済法科大学


John Steinbeck was very interested in the control that religion can have over the minds of men and women. So in East of Eden he analyzed “morality” (in western thought) by viewing the present and historical fallout created by believers of the Judeo-Christian “creation” myth found in the Old Testament of the Bible. But he calls his novel “the story of my county (not “country”, author) and the story of me”, thereby personalizing a (biblical) drama that has had far-reaching implications in the history of western man. He once intended to call his novel Cain Sign, stressing an association with the theme of “good and evil” found in the Garden of Eden/Adam and Eve/Cain and Abel chronicle.

In part, this presentation will address the issue of how to consider what is meant by the terms “east” and “Eden”. It will be shown how these terms are confusing when used together. Steinbeck may have been aware of the confusion; indeed he may also have been confused, having been born in America where, certainly, many ideas (especially those regarding the Bible) are given an innate, sacrosanct value (especially in religious circles).

But when one scrutinizes the biblical version of the Cain and Abel story in relation to the Garden of Eden fable, many interesting word associations and meanings emerge. For example, after Cain killed his brother he was expelled from Eden and banished to the “Land of Nod” (again, in the “east”). What does this mean? What did it mean to Steinbeck when he, at one time, stated “Surely Salinas (his birthplace, author) is “’East’ of Eden”? And then after his banishment from Eden, Cain was “protected” from harm and death. Why? These and other ideas surely inspired Steinbeck who, himself, was the father of two boys. We may thus be encouraged to believe that the meaning of words and terms that the writer used in the novel have significance. This will also be considered in the presentation.

The writer has said that he had been writing on this novel all of his life, and yet he called it his “first book”. He also stated that the book was his “magnum opus.” At one time he wrote “I’ve been practicing for a book for 35 years and this is it.” By studying the words used in both the title and in the text of the novel we can begin to understand how the writer perceived the greatest story that has plagued the western mind since time immemorial.