1. 全国大会
  2. 第43回 全国大会
  3. <第1日> 10月16日(土)
  4. 第1室(2号館1階 211教室)

第1室(2号館1階 211教室)

開始時刻
1.午後2時00分2.午後2時55分
3.午後3時50分4.午後4時45分(終了5時30分)
司会内容
成田 雅彦

1.The Acts of Reading in The House of the Seven Gables

  吉田 恭子 : 慶応大学

2.自制とパッション —— The Scarlet Letter における分裂した男性主体

  小久保 潤子 : 大阪大学(院)

牧野 有通

3.“The Two Temples”における Melvilleのdiptych的想像力とアポリア

  真田  満 : 龍谷大学(非)

4.南部女性と南北戦争 —— Augusta Evans の Macaria

  大井 浩二



吉田 恭子 慶応大学

 

This presentation will explore how multi-layered acts of reading help describe the moral and aesthetic intricacy in The House of the Seven Gables by Nathaniel Hawthorne. The modes of reading and interpretation presented in the text dictate how to read the text itself and reflect the author’s wishes about how his romance, and romances in general, should be read by his ideal reader. In short, Seven Gables is a romance about how we should read romance.

In order to distinguish a romance from a novel, Hawthorne suggests in his seminal preface that the reading of a romance demands a mental activity different from the one of a novel. “A high truth,” according to Hawthorne, is moral and possibly “adds an artistic glory” to a work of fiction, which manifests itself through a “subtile process” that is “fairly, finely, and skillfully wrought out” by the mutual act between the author and his attentive reader.

Like the author and the reader, the preface and the following narrative are complementary to each other. The preface defines the nature of the following narrative, but furthermore, the narrative self-reflectively demonstrates the preferred way of reading romance by providing both successful and unsatisfactory examples of reading acts on multiple levels. First, the book includes several metaphors central to the technique of the penetrative romance reading: mesmerism, mirror, light and shade, daguerreotypy and portraiture, to name a few. Secondly, Hawthorne and the reader are not the only participants of the reading activity in Seven Gables; the characters’ reading of each other constitutes a network of mutual interpretations, thus providing the reader with an extra level of reading material - a tapestry of the interpersonal relationships or an epitome of society, and a meta-narrative commentary about the act of reading itself.

The presentation will discuss a few such examples from the book. An often quoted example is Clifford’s reading of Phoebe, in a manner that clearly reflects the idea of romance presented in the preface. Another remarkable case is Judge Pyncheon whom the narrator subtly yet strategically excludes from the circle of readers so as to illustrate his moral failure.


小久保 潤子 大阪大学(院)

 

「罪とその結果の物語」というのがThe Scarlet Letter の最も一般的かつ簡潔な要約となろう。しかしこのテキストにおいて罪がセクシュアリティの罪に他ならないことを考えると、さらに「セクシュアリティとその結果/作用の物語」と言い換えることが可能である。そもそもこの物語の全ての始まりはChillingworthとHesterの「結婚(異なったジェンダー間のセクシュアリティが家庭という空間で交わり、前景化される行為・状況)」なのである。19世紀アメリカの文化的エトスである「男らしさ」の観念や、家庭性への強迫観念は、男性の自らのセクシュアリティへのかかわり方に大いに作用している。ChillingworthとDimmesdaleにはそれぞれ、19世紀中葉アメリカ社会の中流階級の男性主体のセクシュアリティをめぐるジレンマから起こる不安や、矛盾したあり方の両極が反映されていると考えられる。

Walter Herbertが “the emerging middle-class obsession with maintaining self-control in the face of sexual desire”と的確に述べているように、19世紀の中流階級の男性たちは己のセクシュアリティに対して強い自己コントロールを求められるようになっていた。文化的に見ると、The Scarlet Letterが書かれた当時は、男性にセクシュアリティを抑制し、自己浄化を促す言説が数多く生み出されていた。しかし男性にセクシュアリティの抑制を求める言説が多くあったという事実はそれだけいっそう性的放縦さが社会に浸透していたことを示唆している。セクシュアリティに関して統制が効かなくなっていたからこそ、それを規制し抑圧しようとするdomesticityの(を賞賛する)言説が生み出されたのではないか?さらに社会を家庭性のイデオロギーが支配する反面、19世紀中葉になって経済的な理由や職業上の理由から結婚を遅らせる(あるいはしない)男性が増えていたという記録もある。

このように19世紀のアメリカの男性主体はセクシュアリティの言説が蔓延する一方で、それを抑制しなければならないという矛盾した状況に置かれていた。The Scarlet Letterにおいて妻を寝取られた夫Chillingworthと他人の妻を寝取ったDimmesdaleにはそれぞれ、19世紀的文脈での「男らしさ」の要請によって引き起こされた男性主体の分裂した状態が反映されていると考えられる。このテキストにおいて男性主体のセクシュアリティをめぐる自己コントロールへの強迫観念が分裂した男性主体の表象としてどのように作用しているかを、ChillingworthとDimmesdaleの描かれ方を具体的に見ることで検討してみたい。


真田 満 龍谷大学(非)

 

Herman Melvilleは短篇を集中的に書いていた時期に、diptychと形容されることの多い形式の作品を三作書いている。Diptychは、開閉式の二枚の板に絵の描かれた祭壇画である。絵画のコレクターでもあったMelvilleは、区別されつつも決して分離されない主題を表現するには、diptychという形式が有効だと判断したのかもしれない。片側に教義上の人物、もう片側に寄進者、祈念者が描かれた作品を例にとれば、diptychには左右に別々の絵が描かれて区別がなされてはいるが、蝶番で繋がれた左右の絵に信仰という分離しえない物語性が与えられていると言えるからである。Melvilleはdiptych三作品で、それぞれアメリカとイギリスという対照的な舞台のペアを選び、二つ目の物語の最後に、独立した物語を結び合わせて結論付けようと試みる数行を加えている。

発表では、これら三作品の中から最も効果的なdiptych的想像力の所産であると思われる“The Two Temples”を取り上げる。比較対照によって主題を深めることのできるdiptych構成を持ちながらも、最終的には、二項対立的に社会的弱者を生む制度批判へと作品の主題を収束させがちな他の二作とは違い、“The Two Temples”では安易に結論が導けない主題が提起されていると言えよう。この作品は、みすぼらしい身なりをしていたがゆえに教会での礼拝が許されず、不法ながら通気孔へ侵入し、そこから礼拝に参加するが、結局は咎めを被るという、アメリカを舞台にした“Temple First”と、その後イギリスで文無しになりながらも、施しによって教会にたとえられる劇場に入場することを許された語り手が、俳優によって舞台で演じられる枢機卿の演技に信仰を見出す“Temple Second”から成るdiptychである。Melvilleが提出するのは、堕落した権威主義的なアメリカの教会批判だけではない。語り手は、アメリカの教会での礼拝の実演を眺めてそれをshowにたとえ、イギリスで観客を敬虔な気持ちにさせる、社会的にもキリスト教徒としても最高の品位をもつ俳優の演技に対し、“What is it then to act a part?”と自問するのである。ここで問われているのは、真/偽、本質/見かけ、本物/偽物、等の区別の困難さである。形骸化した教会での礼拝や俳優が演じる枢機卿に信仰を見出すことは、共に真の宗教経験であるのか否か。例えば祭壇画であったdiptychは、Melvilleが美術館で鑑賞した時代には、すでに礼拝用から展示用へとその用途が変化している。鑑賞者Melvilleは“Temple First”の会衆のような存在にすぎないのか、それとも“Temple Second”のような宗教体験をしたとして、それは聖なる体験なのか、まやかしなのか。Melvilleが“The Two Temples”で提起する問題は、当時の社会変化が生み出した問題だと言えようが、解決困難な難問である。

このアポリアをめぐって、当時のアメリカの経済・社会問題を交えながら考えてみたい。


大井 浩二

 

戦争は一般に男性のための領域と考えられているが、しばしば最初の “total war” と定義される南北戦争の場合、非戦闘員であるはずの南部女性も、否応なしに悲劇的な状況に巻き込まれることになった。ドメスティック・イデオロギーの支配するアメリカで、家庭という私的な領域に閉じこもっていた白人女性たちにとって、南北戦争という公的な男性世界の出来事は、一体どのような意味を持っていたのか。さまざまの形での戦争体験は、彼女たちの保護された日常生活にどのような影を落とすことになったのか。

こうした疑問に対する答えは、たとえば戦時下の南部で暮らす女性によって書かれた手紙や日記、男装の兵士として実戦を経験した女性の回想などに求めることができるが、この発表では、ベストセラー作家Augusta Evans(1835‐1909)の長編小説 Macaria (1864)を取り上げ、南部女性作家は南北戦争と南部女性との関係をどのように見ていたか、という問題を考えてみたい。

大衆作家Augusta Evans の名前は広く知られているとは言い難いが、1859年出版のBeulah と1866年出版のSt. Elmo はともにベストセラーとなり、とりわけ後者はUncle Tom’s Cabin に匹敵する部数を売り上げたと言われている。戦争末期に出版されたMacariaもまた、南部でベストセラーになっただけでなく、ひそかに持ち込まれた北部で印刷されて、センセーションを巻き起こし、数多くの読者を獲得した。ある北軍の将軍は、南部連邦の主義主張を宣伝するプロパガンダ小説であるという理由で、部下の兵士たちがMacariaを読むのを禁止した、というエピソードさえ残っている。

この小説は二人の若い女性を巡って展開する。美貌と財産に恵まれていながら、孤独地獄をさ迷っている南部令嬢 Irene Huntingdon。Irene の親友で、貧しい孤児としての運命に耐えている、画家志望の少女Electra Gray。この二人はまったく対照的な生活環境に置かれているが、それぞれに強烈な個性の持ち主であって、自己実現という目的のために父権的なアメリカ/南部社会の束縛から自由になることを願っている。Irene は高圧的な父親と父親が決めた婚約者に反発して、慈善事業や天文学の研究に喜びを見出し、Electra は恩師の画家との結婚を拒絶し、彼の死後はフランスに渡って絵画の勉強を続ける。やがて勃発した南北戦争を目撃する二人の主人公が、結婚しない女性としての生き方を最終的に選び取るMacaria の結末には、南部の独立を勝ち取るための戦いは、同時にまた、南部女性が男性の支配を脱して、精神の自立を獲得するための戦いであった、というEvansのメッセージが込められている。戦争という男性にとっての破壊的な事件が女性にとっては建設的な意味を持っていた、というアイロニカルな状況設定に注目したい。