開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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西山けい子 |
佐竹 由帆 : 青山学院大学(非) |
2.暴力と権力の構図——Margaret AtwoodのBodily Harm 大塚由美子 : 北九州市立大学(非) |
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荒 このみ |
室 淳子 : 大阪大学(非) |
4.書くこととアメリカ人であること——John FanteのThe Road to Los Angeles を読む 山住 勝利 : 神戸総合医療介護福祉専門学校(非) |
澤﨑 由起子 青山学院大学(非)
(1903-77)は7巻に及ぶ で知られる作家である。1966年に第一巻が出版された時、女性解放を求める時代の影響もあり、主に女性の読者に好意的に受け入れられたが、自己陶酔的な描写の多さがしばしば批判されてきた。
このような理想化の傾向とNinの自分の外見に対する自意識との間には、関連があるのではないだろうか。Ninは華奢ではかなげな自分の容貌を描写し、それに対する他者の賞賛を書きとめることが多いが、そのような容貌への愛着が内面を規定していくことは考えられるだろう。すなわち、弱々しい外見に対応する弱々しい内面を持っている、という自己認識が誘導されるということである。容貌と相容れない要素は抑圧される可能性がある。Ninは、性役割で女性に割りふられてきた弱さという側面を体現していたことから、自他の視点とも、Ninが弱さを内面化し、そのように自己認識することを容易に助長したと考えられるだろう。このような誘導された自己認識に基づいて書いたことが、Ellmannが批判するステレオタイプの女性像の再生産の一因ではないだろうか。そしてそのような自己描写は、確かにScholarの言う通り誠実なものではない。自己認識の段階と描写の段階において、二重の欺瞞があったと考えられる。
しかしAlthusserやJudith Butlerが言うように、主体は呼びかけによって立ち現れるものである以上、そのような主体を築いたことを批判するだけでなく、そのような主体が築かれていく過程を詳細に考察すべきだろう。男性より外見を重視されやすい女性のNinにとって、注目される外見が及ぼす影響は、大きかったのではないだろうか。Ninがいかに「主体的に」ステレオタイプの自己を確立していったかについて、外見という観点を中心に考えてみたい。
大塚 由美子 北九州市立大学(非)
カナダの作家Margaret Atwoodの5作目の小説 Bodily Harm (1981)の主な舞台は、旧イギリス植民地の西インド諸島の架空の島St. AntoineとSte. Agatheである。カナダからこの島を訪れた自称「旅行記者」である主人公Rennie Wilfordは、「ライフスタイル」についての記事を得意とし政治は苦手である。彼女は首相選挙の立候補者Dr. Minnowとの出会いを通して、イギリスからの独立以来初めて実施される「民主的な」選挙が、暗殺、暴動、弾圧といった暴力により惨劇へと変わる様子を目撃し、自らもその惨劇に巻き込まれていく。
小説に登場するカリブ海の小国は、地理的にはベネズエラからアメリカ合衆国への石油輸送の航路に当たり、政治的には旧宗主国イギリスの傀儡政権である。また「CIAのスパイ」「共産主義者対策」などの表現からも、Atwoodが当時の米ソ冷戦構造を作品に導入していることは明らかである。
小説のタイトルは個人レベルと公的レベルにおいて身体に及ぼされる暴力を意味する。個人レベルでは、主人公Rennieの身体に「侵略」して内部を蝕む乳がんと、未遂とはいえ彼女に恐怖を与えるレイプ殺人という男性による暴力である。乳がんは一見ジェンダーと関係が無いように見える。しかし、他のがんとは異なり乳がんが発生する女性の胸部は女性のセクシュアリティや女性性のシンボルであり、男性からの暴力にさらされやすい。このように乳がんとレイプは、主に女性が被害者となるものであり、この小説のエピグラフが提示する「男性が行動し、女は見られる」というジェンダー間の力学を象徴する。
次に公的レベルにおけるタイトルの意味は、物語終結部において国家権力者により人々の身体に加えられる拷問、銃殺など集団的暴力であり、ここには権力者が人々を超越的に支配する権力構造が存在する。またDr. MinnowがRennieに伝える旧宗主国イギリスの経済政策や友好国カナダの「無邪気な」援助政策のように、間接的な形で島の人々を抑圧する隠蔽された暴力性も含まれる。
発表では、当時の政治状況を考慮に入れながら、小国が独立を果たした後のポストコロニアルな状況において、今度は自らの内部で植民地主義的な支配/被支配の権力構造を生み出していく過程を、ジェンダー間の力学の問題と平行して分析し、最終的には「権力」をキーワードに、個人レベルでの暴力がどのように公的レベルでの暴力とかかわりあっているかを考察する。
室 淳子 大阪大学(非)
広大なアメリカの大地を背景に一人たたずむ勇者の姿や、馬を駆る姿、古来の知恵を受け継ぐ儀式や色彩豊かな踊りなど、アメリカ先住民は、しばしば、大地や自然と密接な結び付きをもって連想される。数々の絵画や、芸術写真、映画、パンフレット、絵葉書、土産物、コマーシャルなどに描かれ、多くの人々の認識の中に固定されたそのイメージは、都市、現代性、多文化性、雑種性、消費主義的な物質文化や、文明による移動手段、アメリカ以外の土地への移動などとは無縁であるかのように映る。このようなステレオタイプ的な「インディアン」イメージの固着のほかにも、アメリカ先住民は、居留地への囲い込みの歴史を始め、地域的にも社会的な役割においても固定的な位置に置かれてきた。
1960年代後半以降、アメリカ先住民作家によって書かれてきた現代アメリカ先住民文学は、先住民にとっての場所や移動を時に問題にし、移動する先住民の姿を多く描いている。それは、例えば、Leslie Marmon Silkoの Ceremony (1977)におけるBetonie老人の姿に表わされているし、Gerald Vizenorが描く混血の登場人物は、土地を追われてアメリカ中を旅し (Bearheart, 1978)、中国(Griever, 1987)や日本 (Hiroshima Bugi, 2003)をも旅する。Louise Erdrichの The Antelope Wife (1998)では、都市に住む「ホームレス」な人物や忙しく動き回る祖母たちの姿が描かれている。旅をする先住民の姿は、古くは口承物語の中にも、初期の手記や、ヨーロッパを旅した Black Elkの伝記 (Black Elk Speaks, 1932)の中にも見ることができるだろう。
先住民作家にとってのこのような移動は何を表わしているのだろうか。それは、先に述べたステレオタイプ的なアメリカの大地や特定の風景との固定的な認識や、社会的に与えられた固定的な位置づけを揺り動かしうるものでもあり、先住民にとっての歴史的な移動の不可避性や、Louis Owensが語るようなアメリカ社会における移動への情熱を反映するものでもあるだろう。また、固定化を避ける現代の先住民の流動性と可動性を語るものでもあるのではないだろうか。
本発表では、現代先住民文学における移動の問題に焦点を当て、土地や伝統との切断を伴った歴史と現代の状況への批判を含めつつも、伝統と現代性との折衝を図ろうとする姿勢を上記のGriever とThe Antelope Wife を中心とする複数の作品に探りたい。また、移動の一方で、歴史的な葛藤を伴いながらも、「ホーム」として捉え直される、先住民居留地やインディアン・テリトリーの、両面価値的な意味合いを考察していきたい。
山住 勝利 神戸総合医療介護福祉専門学校(非)
イタリア系アメリカ人作家のJohn Fanteは、Arturo Bandiniを主人公とする一連の自伝的小説を書いた。それらの小説はArturoが作家になるまでの成長物語であるが、1936年に完成された The Road to Los Angeles は他のArturo物語とは趣が異なっている。Road ではArturoにドイツ哲学の影響が見られるため例外的作品になっているのだとも考えられるがむしろ Road が例外的なのは、Fante自身が認めるように、単純に不謹慎な作品だからである。その原因は、缶詰工場で働きながら家族(母と妹)を支える18歳のArturoの、侮蔑的な言葉を発しながら周りの世界を片っ端から否定し続ける態度にある。Arturoが否定するのは、読み書き能力を有しない人達である。フィリピン人やメキシコ人や日本人と一緒になって工場で働くイタリア系のArturoは、彼女/彼らが自分のように読み書きできないがゆえに軽蔑する。それは母や妹や叔父に対しても変わらない。Arturoは周囲の世界を徹底的に否定し孤立するが、彼にとっては読み書き能力がアメリカ人であることの証しなのだ。だから、Road では自称作家の彼だけがアメリカ人となる。
Road の登場人物が19世紀末から20世紀前半の米国に急増してきた非西欧・非北欧系の移民(2世を含む)で占められていることもあって、Arturoの読み書き重視の態度は、1896年に上院議員のHenry Cabot Lodgeによって提案され1917年に成立した移民制限のための「識字能力検査法案」を連想させる。それは英語の読み書き能力を問うことによって端的に南欧・東欧・アジア系の教育のない貧しい移民を排除しようとする法案である。だが政治家達のそうした移民制限に関する動きがある一方で、企業家達は工場での単純労働をおこなう労働力として移民を歓迎しており、移民の流入はさらに増していくのである。そしてそのように社会秩序が変化する時代では、アメリカ人である(になる)ことの根拠が言語に関することか人種かあるいは肌の色に関することか不明確となる。もちろんアメリカ人の中心にWASPがいることは変わりないが。いずれにせよ1920年代後半のロサンジェルスの缶詰工場におけるArturoの態度は、自分が貧しい南欧系移民の子供であるにもかかわらず、西欧文化中心主義の偏見に満ちたものに見える。
Arturoは、作家になって富と名声を手に入れるというアメリカン・ドリームを夢見ている。その自信と希望が(過去に“Dago”と差別されたことがあっても)Arturoにアメリカ人であるという意識をもたらしているようだ。しかし、Arturoの書くことに対するこだわりを見ると、彼が富と名声のためだけに作家になろうとしているとは考えられない。書くという行為自体が富と名声に直接結びつくわけではないのだから。Arturoの場合、書くこととアメリカ人であることの間には——移民が求める「お金」とは違う——どのような本質的な接点があるのだろうか、ということが本発表で探究する問題である。他のArturo物語と比較検討しながら考察していきたい。