山住 勝利 神戸総合医療介護福祉専門学校(非)
イタリア系アメリカ人作家のJohn Fanteは、Arturo Bandiniを主人公とする一連の自伝的小説を書いた。それらの小説はArturoが作家になるまでの成長物語であるが、1936年に完成された The Road to Los Angeles は他のArturo物語とは趣が異なっている。Road ではArturoにドイツ哲学の影響が見られるため例外的作品になっているのだとも考えられるがむしろ Road が例外的なのは、Fante自身が認めるように、単純に不謹慎な作品だからである。その原因は、缶詰工場で働きながら家族(母と妹)を支える18歳のArturoの、侮蔑的な言葉を発しながら周りの世界を片っ端から否定し続ける態度にある。Arturoが否定するのは、読み書き能力を有しない人達である。フィリピン人やメキシコ人や日本人と一緒になって工場で働くイタリア系のArturoは、彼女/彼らが自分のように読み書きできないがゆえに軽蔑する。それは母や妹や叔父に対しても変わらない。Arturoは周囲の世界を徹底的に否定し孤立するが、彼にとっては読み書き能力がアメリカ人であることの証しなのだ。だから、Road では自称作家の彼だけがアメリカ人となる。
Road の登場人物が19世紀末から20世紀前半の米国に急増してきた非西欧・非北欧系の移民(2世を含む)で占められていることもあって、Arturoの読み書き重視の態度は、1896年に上院議員のHenry Cabot Lodgeによって提案され1917年に成立した移民制限のための「識字能力検査法案」を連想させる。それは英語の読み書き能力を問うことによって端的に南欧・東欧・アジア系の教育のない貧しい移民を排除しようとする法案である。だが政治家達のそうした移民制限に関する動きがある一方で、企業家達は工場での単純労働をおこなう労働力として移民を歓迎しており、移民の流入はさらに増していくのである。そしてそのように社会秩序が変化する時代では、アメリカ人である(になる)ことの根拠が言語に関することか人種かあるいは肌の色に関することか不明確となる。もちろんアメリカ人の中心にWASPがいることは変わりないが。いずれにせよ1920年代後半のロサンジェルスの缶詰工場におけるArturoの態度は、自分が貧しい南欧系移民の子供であるにもかかわらず、西欧文化中心主義の偏見に満ちたものに見える。
Arturoは、作家になって富と名声を手に入れるというアメリカン・ドリームを夢見ている。その自信と希望が(過去に“Dago”と差別されたことがあっても)Arturoにアメリカ人であるという意識をもたらしているようだ。しかし、Arturoの書くことに対するこだわりを見ると、彼が富と名声のためだけに作家になろうとしているとは考えられない。書くという行為自体が富と名声に直接結びつくわけではないのだから。Arturoの場合、書くこととアメリカ人であることの間には——移民が求める「お金」とは違う——どのような本質的な接点があるのだろうか、ということが本発表で探究する問題である。他のArturo物語と比較検討しながら考察していきたい。