室 淳子 大阪大学(非)
広大なアメリカの大地を背景に一人たたずむ勇者の姿や、馬を駆る姿、古来の知恵を受け継ぐ儀式や色彩豊かな踊りなど、アメリカ先住民は、しばしば、大地や自然と密接な結び付きをもって連想される。数々の絵画や、芸術写真、映画、パンフレット、絵葉書、土産物、コマーシャルなどに描かれ、多くの人々の認識の中に固定されたそのイメージは、都市、現代性、多文化性、雑種性、消費主義的な物質文化や、文明による移動手段、アメリカ以外の土地への移動などとは無縁であるかのように映る。このようなステレオタイプ的な「インディアン」イメージの固着のほかにも、アメリカ先住民は、居留地への囲い込みの歴史を始め、地域的にも社会的な役割においても固定的な位置に置かれてきた。
1960年代後半以降、アメリカ先住民作家によって書かれてきた現代アメリカ先住民文学は、先住民にとっての場所や移動を時に問題にし、移動する先住民の姿を多く描いている。それは、例えば、Leslie Marmon Silkoの Ceremony (1977)におけるBetonie老人の姿に表わされているし、Gerald Vizenorが描く混血の登場人物は、土地を追われてアメリカ中を旅し (Bearheart, 1978)、中国(Griever, 1987)や日本 (Hiroshima Bugi, 2003)をも旅する。Louise Erdrichの The Antelope Wife (1998)では、都市に住む「ホームレス」な人物や忙しく動き回る祖母たちの姿が描かれている。旅をする先住民の姿は、古くは口承物語の中にも、初期の手記や、ヨーロッパを旅した Black Elkの伝記 (Black Elk Speaks, 1932)の中にも見ることができるだろう。
先住民作家にとってのこのような移動は何を表わしているのだろうか。それは、先に述べたステレオタイプ的なアメリカの大地や特定の風景との固定的な認識や、社会的に与えられた固定的な位置づけを揺り動かしうるものでもあり、先住民にとっての歴史的な移動の不可避性や、Louis Owensが語るようなアメリカ社会における移動への情熱を反映するものでもあるだろう。また、固定化を避ける現代の先住民の流動性と可動性を語るものでもあるのではないだろうか。
本発表では、現代先住民文学における移動の問題に焦点を当て、土地や伝統との切断を伴った歴史と現代の状況への批判を含めつつも、伝統と現代性との折衝を図ろうとする姿勢を上記のGriever とThe Antelope Wife を中心とする複数の作品に探りたい。また、移動の一方で、歴史的な葛藤を伴いながらも、「ホーム」として捉え直される、先住民居留地やインディアン・テリトリーの、両面価値的な意味合いを考察していきたい。