1. 全国大会
  2. 第45回 全国大会
  3. <第2日> 10月15日(日)
  4. シンポジアムⅡ(中部支部発題)(58年館4階844教室)

シンポジアムⅡ(中部支部発題)(58年館4階844教室)


司会・ 講師
金沢大学 結 城 正 美
場所を語る/場所が語る——環境文学における語り直し
講師
福井大学 辻    和 彦
破壊を創る——ハリウッド映画における語り直し
愛知県立大学(非常勤) 中 山 麻衣子
黒人口承文学におけるヴァナキュラーなアイデンティティ表象——Langston Hughes, Gwendolyn Brooksからヒップ・ホップまで
国境と人種の語り直し——アメリカ南西部からの声を中心に



歴史の浅さゆえか、世界屈指の移民国家であるためか、理由は何であるにせよ、アメリカにおける思想形成は生活や知恵や慣習といった経験的蓄積にもとづくボトムアップ方式ではなく、「まず概念ありき」というトップダウン方式で形成されてきたところがある。そのようなアメリカにおいて、「語り直す」(re-story)という動向が文学や文化表象において多様に認められる。

この現象は、「アメリカ」を形成してきた観念のゆらぎを示すと同時に、従来の観念的思想形成の限界ないし破綻を露呈していると言えるだろう。というのも、語り直しという動きは、観念に代わる強力な思想的磁場が意識されてはじめて可能となるはずだからである。この新たな思想的磁場というべきものは、何も無いところから新規に創出されるというよりは、確然と存在している(いた)にもかかわらず意識化されていなかった生や思想の営みを母胎とするのではないか。

語り直すというベクトルは、過去の認識の如何によって二通りに分類されるだろう。ひとつは、過去を批判的に乗り越えて新たに何かを創出する志向であり、もうひとつは、過去の再認識にもとづいて過去や記憶を現在に前景化する動きである。本シンポジアムでは、そういう語り直しが孕む多様な意味を、黒人文学、環境文学、境域文学、そしてハリウッド映画を材にとり、多面的かつ具体的に検討する。

なお、タイトルについて一言記しておきたい。お気づきのとおり、「アメリカの語り直し」というタイトルはきわめて曖昧であり、アメリカが語り直す主体であるとも語り直される対象であるともとれる。しかし、〈語り直すアメリカ〉と〈語り直されるアメリカ〉は、截然と分け隔てられうるものでもないだろう。本シンポジアムでは、〈語り直すアメリカ〉と〈語り直されるアメリカ〉の関係や緊張を読み取りつつ、語り直しという現象に映し出されるアメリカの内発的変容に迫りたい。


(文責 結城正美)



金沢大学 結城 正美


本シンポジアムの「語り直し」というテーマは、現代作家で民族植物学者であるGary Paul Nabhanの次の言葉から着想を得たものである——“To restore any place, we must also begin to re-story it.”場所の力を取り戻すには、その場所を「語り直す」ことが必要だ、という見解である。この場合、二通りの語り直しが考えられる。一つは、かつて語り継がれ、現在は忘却されたかされつつある物語を復活させる、という意味である。もうひとつは、従来の場所観の批判的検証にたち、場所との関係を刷新するというものであり、これには場所との物語を創造するという面がある。

私の報告ではまず、「場所」と「語り直し」をめぐるナブハンの見解を、Cultures of Habitatをはじめとする彼の著作と照らし合わせたり、現代アメリカ環境文学の流れに位置づけたりしながら、多層的に読み解きたい。そして、現代における場所の語り直しの具体例として、アメリカ西部の現代作家の作品を取り上げ、語り直しの手法(レトリック等)や意義を検証する。また、1990年代以降興隆が目覚ましい環境文学において、「場所」と「語り直し」が持つと思われる文学的・文化的・政治的意義についても検討したい。


福井大学 辻 和彦


語り直しする以上、先行するものを破壊しなければいけない。アメリカニズムに内包された論理には、そうした側面も少なからずあるのではないだろうか。十九世紀からの福音主義による禁酒運動や、所得格差の拡大を当然視し、市場原理を盲目的に信じる自由主義的資本主義などはその好例であり、いずれも自己の「語り直し」のために、先行する「慣習」、「制度」、「組織」を容赦なく破壊することを偏愛するのである。

アメリカが創り出した最大の文化産業であるハリウッド映画の世界でも、「破壊」は長らく最も華やかな見せ場であり続けている。「正義」や「善」を体現する主人公が、「理想」や「救済」のために、「悪」が蔓延る社会を破壊するといった、数知れぬほど製作されてきたシークエンスなどは、その典型例であろう。

こうした「破壊」場面は、当然のことながら過度に暴力的であるがゆえに批判されることが多い。しかしながらそうした「暴力」の裏側にどのような語り直しのレトリックが潜んでいるのかを探ることは、その「破壊」の意味の再定義のためにも必要不可欠である。

またハリウッドはしばしばこのような物理的破壊に託して「制度」や「概念」の破壊を描いてきたが、こうした「破壊」は「再生」や「再出発」のために「必要」なものとして想定されている。例えば「家族」の「破壊」と「再生」などは、やはりハリウッドがよく好む主題であり、時代の変動という背景の下で両者は別ち難く結びついてきた。そして時としてそれらは、曖昧模糊とした共存関係など許さず、「理想」の家族像への献身を強制する社会的役割を果たしている可能性すらある。

Stephen Spielbergはこうしたハリウッドの中で、一流の「壊し屋」であり続けてきた。得意とする特殊撮影で描く彼の物理的「破壊」は、言うまでもなく当代随一のものであり、特にそのスケールの大きさには定評がある。語り直しを必ずしも修正の段階に留めないという「原理主義的」アメリカにおいて、雄大な「破壊」を大量生産してきた彼が名声を保っているのはもっともなことであるが、しかしながら、その「破壊」のうちに存在する語り直しのベクトルは、「再生」のための「破壊」や、「破壊」のための「破壊」と常に一致するわけではない。本発表では、Spielbergの作品を中心に取り上げながら、ハリウッド映画における「破壊」と「語り直し」のロジックを探る第一歩を踏み出してみたいと思う。


愛知県立大学(非常勤) 中山 麻衣子


ハーレムルネサンス以降、アフリカ系アメリカ人による「ヴァナキュラーの伝統」(=黒人霊歌、ゴスペル、労働歌、ブルース、ジャズ、黒人説教、民話、俗謡、そしてヒップ・ホップなど)は、アフリカ系アメリカ人による表象行為において、主流社会への同化を迫られながらも巧みに抵抗し、常にヘテロジニアスなダイナミズムを生み出すものとして、様々な黒人作家によって意識的に導入されてきた。特にLangston Hughesは、黒人庶民たちの"ordinary speech"(=「シグニファイイング」などに代表される黒人特有の言語遊戯あるいは俗謡、ストリート・トーク)の中に、アフリカ系アメリカ人としての経験を語り継ぐ文学装置を見出した、もっとも初期の作家の一人である。

本発表においては、Hughesに始まる黒人口承文学の伝統を、Nikki Giovanni 、Gwendolyn Brooksなどによる詩作品、そして現代のヒップ・ホップヴァースの中に追ってゆきたい。Giovanniが、70年代のブラック・パワー運動以来、扇情的・大衆的な口語による詩を書き続け、現在のヒップ・ホップアーティストたちからも大きなリスペクトを受ける一方、主に白人知識層からの支持を受けたBrooksは、次第にソネットなどの"grand style"にヴァナキュラーな"ordinary speech"を滑り込ませ、新しいハイブリッドな黒人詩を生み出すことに挑戦する。このような、既存の文化的表象に対する黒人アーティストたちの抵抗は、現代のヒップ・ホップにおける常套手段である「サンプリング」(=既存のメジャーな楽曲を一部解体・コピーしつつ、全く新しいインパクトを持つ別の作品に再構築する手法)にも受け継がれていると言える。黒人口承文学は、白人主流文化に対し自由な「語り直し」を挑むことによって、その権力構造を揺るがすレトリックとなりうるのだ。

ディアスポラの経験ゆえに、アフリカ系アメリカ人の文化表象・アイデンティティ表象は、常に流動し続ける。作家と黒人コミュニティとの間にはいわば絶え間ないコール・アンド・レスポンスが行き交い、ボトムアップ式な突き上げを柔軟に取り込むことによって、常にその領域・境界線を押し広げるのである。


琉球大学 喜納 育江


常に生々流転する「アメリカ文化」という表象を、私たちはいかにして理解すればよいのか。この問いは、それぞれの時代における批評の声を聞き取りつつ内部から変容してきたアメリカ文学研究の現在を解読しようとする試みに他ならない。アメリカ文学研究は、ポストモダン、多文化主義、ポストコロニアルといった文学批評理論の骨子となる「人種」・「階級」・「ジェンダー」という主要概念による視点を解釈や分析の中心に据えてきた。しかし、トランスジェンダー、ハイブリディティといった境域概念の出現は、「人種」・「階級」・「ジェンダー」という、文化を理解しようとする際のこうした尺度、あるいは概念そのものさえ、内部からの変容を免れないことを示している。すなわち、従来の批評概念に回収されない物語を語ることが、現代アメリカの書き手による「アメリカ」の「語り直し」であるとも考えられる。

本発表では、米墨国境地帯を包含するアメリカ南西部という場所から生まれる声にこうした「語り直し」の手がかりを求める。白人、プエブロ先住民、チカーノをはじめとする複数文化が混在するアメリカ南西部は、「人種」や「国境」という批評概念による区分線の存在が曖昧になる場所である。すなわち、ある場所が磁場のようにそこに集結する人間の多様な文化や感性に作用することによって、人種や国境などという概念では区分や説明し尽せない文化が生まれるのだ。Leslie Marmon SilkoのAlmanac of the Dead(1992)や、Ana CastilloのSo Far from God (1993)などは、アメリカ南西部という磁場から放たれるそのような境域文化生成の力を表現しているように思われる。ある場所が磁場となり、「人種」や「国境」の概念枠を越える言説を生むそのような感性は、他の場所における他のアメリカの作家、例えばKaren Tei Yamashitaの作品群にも見ることができる。

多様な文化や人種が集う「場所」を中心に形成された共同体と、そこに生まれる境域文化を描く現代アメリカの書き手たちは、「人種」・「階級」・「ジェンダー」という従来の批評概念をのびやかに変容させ、「アメリカ」を理解しようとする試みに新しいイメージを提示しているように思われる。それはまた「アメリカ」そのものの語り直しを提案する今日的アメリカ文学のありようであると言えるだろう。