開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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伊藤 章 |
1.Susan Glaspellの “A Jury of Her Peers” とTrifles の比較——「些細なこと」ではない改訂 チェイス(鬼塚)洋子 : 大阪人間科学大学 |
2.歪な星条旗の上で——Sam Shepard劇に見るアメリカ 森 瑞樹 : 大阪外国語大学(院) |
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長畑 明利 |
3.戦後アメリカ詩における「連作」の系譜——Berryman, Lowell, Ashbery, Ammons 飯野 友幸 : 上智大学 |
4.セッションなし |
チェイス(鬼塚)洋子 大阪人間科学大学
Susan Glaspellは 1916 年8月にProvincetownで初演された一幕劇 Trifles を翌年3月に “A Jury of Her Peers” という短編小説に書き換えて発表した。この二作品は通常区別されず一括して議論されているが、精細に比較すれば後者は、男性中心だった演劇社会で上演されて成功したTrifles をGlaspell が緻密に計算し、自分により納得のいくフェミニスト・マニフェストとして完成させたものである、という構造が顕れてくる。
主要な改訂点を挙げる。まず、Trifles ではMrs. Haleとしてのみ登場する人物が、“Jury ”においてはMartha という名を持った主体的人物として冒頭から現われ、中断された自分の仕事を完成させたがっている、という物語の筋を作る。主人公はしたがってMartha Haleという活発な主婦であり、殺人容疑で身柄拘束中のMinnie Wrightが定説的に “absent protagonist” として賞賛されているTrifles とは根本的に異なっている。次に、Trifles の時間は凍りついているが “Jury” における時間はジュリア・クリステヴァのいわゆる「女の時間」とも言えるような流動性を持つ。又、改訂版においては、夫たちが時にMrs. Hale’s husband とか Mrs. Peters’ husbandと言及され、夫婦関係の主体性が逆転させられている。最後に、Martha Hale と Mrs. Peters の間の会話における語りかけの順序が筋の展開につれて Trifles と “Jury ” では逆転している。これはMrs. Petersという比較的保守的な主婦が、保安官の妻である立場から夫殺しの事件に関わっていくうちに、女性蔑視の現実問題意識に覚醒し、男性中心のロゴスに対して次第に積極的に非協力的になっていく過程を意義づけている。
結論としては、Trifles は抑圧された女性たちの悲劇を強調する表現主義的演劇作品として強烈な効果を与えて終わるが、女性像の与える余韻は暗い歴史の地下で憤怒に凍りついたままの復讐の女神たちのようである。“A Jury of Her Peers”は、Glaspellがジャーナリスト時代に取材した夫殺しの容疑者に周囲の女たちが示した同情心と主体性ある行動を蘇らせるのみならず、女性の法的人権獲得をも訴えている。Glaspellはより明確に意識してフェミニスト作家として仕事を完成させたのである、と考えられる。
森 瑞樹 大阪外国語大学(院)
アメリカ大陸発見から21世紀現在に至るまで、古くはヨーロッパによるインディアン制圧に始まり、記憶に新しいイラク戦争まで、アメリカの歴史は幾多の戦争により彩られている。
アメリカ演劇界を代表する劇作家Sam Shepardは、90年代以降の2つのアメリカによる対イラク戦争直後に象徴的な作品を世に送り出している。湾岸戦争翌年の1991年に初演を迎えた States of Shock は、まさにその影響を受けたかの如くあまりにも軍事的なモチーフが多用される。同様に対イラク政策が激化し、大量破壊兵器への疑心から勃発したイラク戦争後の2004年に初演を迎えた The God of Hell は、まさに地獄の神プルートーをその名の由来とする放射性物質プルトニウムについて展開する作品である。 States of Shock は、そのプロットと時代性のパラレルにより、「アンチ・ウォー・プレイ」としての読みをおこなう批評家も見受けられる。しかしながらこの作品を、反戦劇としての読みの範疇に収めてしまうことには些か疑問が残るところである。
本発表においては反戦劇としての側面を踏まえつつ、States of Shock と The God of Hell の両作品をアメリカニズム、帝国性、同時に歴史性を照射する作品としての読みを展開していく。
それにはまず、Shepard劇に多用される星条旗に着目しなければならない。国旗は様々な言説を含意したものであることは言うまでもない。States of Shock でも同様に扱われるこの星条旗であるが、この作品では、通常の旗としての形態を取る星条旗ではない。まずは舞台上で展開される色彩的なモチーフから、舞台上そのものが星条旗として機能するという議論から展開したい。パロディー化された、もしくは異化された星条旗空間、そしてその中を動き回る歴史的表象性を付与された車椅子、「動かす者」と「動かされる者」という関係性から、アメリカに取り憑く神話的シニフィエの解体、さらには隠蔽される帝国主義的歴史性の掘り起こしという論を進めていく。
The God of Hell においては、不可視の物質として人体を崩壊させるプルトニウムを「アメリカ」と見立てた読みを展開する。ここでも同様に万国旗の形状を取る星条旗に着目し、移動、停滞のモチーフと掛け合わせることで浮き彫りされる「アメリカ」の蔓延、「アメリカ」への感染を論じる。上記両作品を論じることにより、現在グローバルに展開されるアメリカニズムの拡張、連鎖の有り様を臨む。
飯野 友幸 上智大学
John Berrymanは1947年に117編からなるソネット連作を書いた。当時プリンストン大学で教えていたBerrymanは道ならぬ恋におちいり、その不倫の関係について綿々と詩行を紡いだのである。実際にこのソネット連作が Berryman’s Sonnets と題されて出版されるのは1967年を待たねばならなかったが、連作という方法がその後のもっと野心的なHomage to Mistress Bradstreet (1956)さらには代表作のThe Dream Songs (1969)への道を開いたことは間違いない。それにしても、20世紀半ばに突如こんな古めかしい形式を使ったことにはどのような意味があったのだろうか。
ひとつには、断片的な書法によって神話を再構築するというモダニズム的長編詩へのアンチテーゼとして、日常を時系列にそって淡々と書きつづる連作という方法が取られたと考えられよう。しかも、古めかしい形式をあえて復活させることによって。The Dream Songs に影響を受け、60年代末からRobert Lowellが書きはじめた長大なソネット群にも同じことが言える。
また、文学史的な背景と同時に社会的・文化的な背景も考えあわせるなら、このソネット連作の意味はさらに広がる。たとえば、音楽に目を転じれば、当時ジャズやクラシックなどのジャンルでさまざまな実験が行なわれはじめたのとは裏腹に、Muzakという会社が有線のような形で多くの会社の職場に配信したBGMは、仕事能率をあげるために役立つということでアメリカじゅうに浸透していた。ひたすら同じ調子でどこまでも続くこの音楽形態は、戦後の経済発展にともなう未曾有の消費文化を支え、さらに郊外に広がっていった中流階級の保守的・画一的な態度を象徴するかのようだ。
同じようなことがBerrymanをはじめとする1910年代生まれの詩人たちにも言えるのではないだろうか。新批評家たちの切り開いた詩人・批評家・大学教師という生き方を踏襲し、保守的・中流的詩人という立場を確立したからである。その一方で、「バード」と呼ぶべき古いタイプの詩人を代表したDylan Thomasが50年代初頭にアメリカを訪れ、各地で異例の人気を博し、そして客死したことは象徴的だ。
本発表では、こういった第二次大戦直後の文化現象をBerrymanのソネット連作に見ることから始め、その後のアメリカ詩への連続性・不連続性も時間の許すかぎり検討する。具体的には、ソネット連作とミューザックの作り出す、いわば「パルス」とでも呼ぶべき一定のリズムのかぎりない繰り返しの美学が、60年代にいかに変容され、後続世代のJohn AshberyやA. R. Ammonsの試みた別種の連作へと流れこんだか、ということを考察する。