西九州大学 渡邉真理子
G. C. スピヴァクは『ある学問の死——惑星思考の比較文学へ』(2003)のなかで、比較文学と地域研究という二つの学問領域(ディシプリン)の連動を唱え、「境界を横断する」ことに「来るべき学問」としての比較文学の未来を見ているようである。多種学問の「知」の間の「境界」が再画定されている現状は、例えば、モンロー・ドクトリンとトランス=アトランティックなアメリカ文学作品との関係を論じたGretchen MurphyのHemispheric Imaginings: The Monroe Doctrine and Narratives of U.S. Empire (2005) にも認められよう。この書が、「半球」という大陸横断的視点によってナショナル・アイデンティティの問題をより広い地理的文脈のなかで再検討すると同時に、「歴史学」と「文学」という知の枠組をも解体し、横断していることは興味深い。また、現在、アメリカの歴史研究において、西欧中心の視点を批判する形で、移民を歴史的主体とした国民史への必要性が高まっていることも、一国中心主義の歴史ナラティヴからの「越境」への関心を示すものにほかならない。
「惑星思考」を論じる学者の仕事は、概ねこの「境界」の概念から出発する。スピヴァクとの親交でも知られるマサオ・ミヨシによれば、18世紀末に「国民国家」という概念によって「帝国主義と資本主義の副産物」として誕生した文学は、グローバル経済が台頭し国民国家が衰退した今では、すでに「死」を迎えているという。こうして「超学問領域」としての環境学に移行した彼の「惑星主義」は、「国民国家」という人為的な「境界」に絡んだアイデンティティ・ポリティクスの放棄を宣言する。それでもなお、何らかの形で「文学」にとどまり、その路上で歩みを止めない者たちにとって、Wai Chee Dimock がThrough Other Continents: American Literature Across Deep Time(2006) において示した、「アメリカ文学」を「常に他の地理、言語、文化に入り、また、そこから出ていく」ような、「オープンエンド型で増殖し続ける」「交差した通路の集合体」とみなすパラダイムは、未来を「越境的に」切り開いていく可能性を提示してくれるのではないか。
本発表では、「越境するロード・ナラティヴ」として主に二つの現代アメリカ小説を挙げ、それらを「惑星思考」のパースペクティヴから読む作業を試みたい。ひとつは、南北大陸間の移動を描く「クロスロード・ナラティヴ」に、まさしく「惑星」のメタ・ナラティヴを導入したRussell BanksのContinental Drift (1985)、もうひとつは、両大陸間の時空を越えた「越境」を、捉えがたくも幻想的に表象したSteve EricksonのRubicon Beach(1986)である。