中野 学而 東京女子大学
BrautiganとCarverというふたりの白人男性作家には、その作品世界がともに理想的ホワイト・アメリカの「裏バージョン」をなすある種の「不景気さ」をたたえていることにとどまらず、いくつもの見逃しがたい共通項がある。ともにほぼ同年代にアメリカ北西部の労働者階級の両親のもとに生まれ、10代の終わりに故郷を離れて以降、終生アメリカ西海岸部・中西部周辺を中心に居を転々としながらも故郷の地を強く意識し続け、またともに重度のアルコール依存症に苦しみもした。また、その一見「脱中心的」でつかみどころのない作風のせいで、ともにこれまで「ポストモダン」的な「主体のフィクショナリティ」や「意味の非決定性」などを射程とする批評的文脈において語られることが多かった—たとえばBrautigan読解のキーワードは「アメリカの物質文明をパロディ化し脱中心化するマリファナやLSD由来の幻覚的ヴィジョン」であり、Carverの場合それは「歴史的・社会的文脈をはぎ取られて決定不能の虚空に宙吊りにされた無名性の登場人物たちの不安」である、という具合に。その結果、作者自身の現実の自伝的状況と抜き差しならぬかたちでその作品世界と作家像を論じようとする試みはほとんどなされてこなかったといってよい。そこで本発表では、それぞれの作品群の中から、Brautiganにおいては特にRevenge of the LawnとSo the Wind Won’t Blow It All Away、Carverにおいては特に “Bicycles, Muscles, Cigarettes”、“Where I’m Calling From” 、そして“Chef’s House” を選び、その読解を通じて、上に述べたような二人の「ポストモダニティ」はあくまで表面的なものに過ぎず、本質的には「故郷」や「家族」にまつわるさまざまな「モダン」の問題から逃げようともがきながらもそこへと呪縛され続ける、それ自体極めて「モダン」(鈍重?無粋?)なふるまいにほかならなかったことを確認したい。その際、図式化の乱暴を承知で、ともに遠く離れた家族とのつながりをかつ恐れかつ求めしながら、前者がそれを結局は回復できなかったさま、後者においてはそれが見事に回復されるさまを示し、その分かれ道が二人の作家の生の分かれ道ともなった可能性を示唆する。両者の「ポストモダン」な皮膚組織の下ではっきりと脈打つ「モダン」な「家族」の血流を明らかにし、その「血」の力学がアメリカの国家的想像力の根幹に流れる「個人主義」と「自己信頼」という特殊なイデオロギーの裏でつねに作用し続けることで、ふたりのアメリカ作家の想像力に独自のテンションを与えていたことを示せれば幸いである。