開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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橋本 賢二 |
1.Paradise Lost, Paradise Regained——リチャード・ブローティガンとレイモンド・カーヴァー 中野 学而 : 東京女子大学 |
越川 芳明 |
2.Belovedから Arc d’X へ——歴史物語における亡霊の政治性 山野 茂 : 大阪大学(院) |
新田 玲子 |
3.血塗られた手——Hawthorne、Auster、書く女 上田麻由子 : 首都大学東京(非常勤) |
4.アメリカ的存在、あるいは "a human becoming" ——AusterのMoon Palaceにおけるフロンティアとアイデンティティの更新性 下條 恵子 : 宮崎大学 |
中野 学而 東京女子大学
BrautiganとCarverというふたりの白人男性作家には、その作品世界がともに理想的ホワイト・アメリカの「裏バージョン」をなすある種の「不景気さ」をたたえていることにとどまらず、いくつもの見逃しがたい共通項がある。ともにほぼ同年代にアメリカ北西部の労働者階級の両親のもとに生まれ、10代の終わりに故郷を離れて以降、終生アメリカ西海岸部・中西部周辺を中心に居を転々としながらも故郷の地を強く意識し続け、またともに重度のアルコール依存症に苦しみもした。また、その一見「脱中心的」でつかみどころのない作風のせいで、ともにこれまで「ポストモダン」的な「主体のフィクショナリティ」や「意味の非決定性」などを射程とする批評的文脈において語られることが多かった—たとえばBrautigan読解のキーワードは「アメリカの物質文明をパロディ化し脱中心化するマリファナやLSD由来の幻覚的ヴィジョン」であり、Carverの場合それは「歴史的・社会的文脈をはぎ取られて決定不能の虚空に宙吊りにされた無名性の登場人物たちの不安」である、という具合に。その結果、作者自身の現実の自伝的状況と抜き差しならぬかたちでその作品世界と作家像を論じようとする試みはほとんどなされてこなかったといってよい。そこで本発表では、それぞれの作品群の中から、Brautiganにおいては特にRevenge of the LawnとSo the Wind Won’t Blow It All Away、Carverにおいては特に “Bicycles, Muscles, Cigarettes”、“Where I’m Calling From” 、そして“Chef’s House” を選び、その読解を通じて、上に述べたような二人の「ポストモダニティ」はあくまで表面的なものに過ぎず、本質的には「故郷」や「家族」にまつわるさまざまな「モダン」の問題から逃げようともがきながらもそこへと呪縛され続ける、それ自体極めて「モダン」(鈍重?無粋?)なふるまいにほかならなかったことを確認したい。その際、図式化の乱暴を承知で、ともに遠く離れた家族とのつながりをかつ恐れかつ求めしながら、前者がそれを結局は回復できなかったさま、後者においてはそれが見事に回復されるさまを示し、その分かれ道が二人の作家の生の分かれ道ともなった可能性を示唆する。両者の「ポストモダン」な皮膚組織の下ではっきりと脈打つ「モダン」な「家族」の血流を明らかにし、その「血」の力学がアメリカの国家的想像力の根幹に流れる「個人主義」と「自己信頼」という特殊なイデオロギーの裏でつねに作用し続けることで、ふたりのアメリカ作家の想像力に独自のテンションを与えていたことを示せれば幸いである。
山野 茂 大阪大学(院)
Toni Morrisonは、Playing in the Dark (1992)において、アメリカ文学において人種問題を扱うことは避けて通れないことであると述べている。この著書の中心的課題は、白人小説の中に現れる、白人の様々な思惑や感情の投影された「アフリカニズム」の分析である。彼女は、アメリカ文学史上キャノンとされる白人小説家の作品を取りあげ、「アフリカニズム」が白人の優越性を確認し、維持するための政治的装置になっていたと論じている。今回の発表では、そのようなMorrison文学の政治性を踏まえた上で、奴隷制という共通のテーマを持つ、白人作家Steve EricksonのArc d’X(1993)とBeloved(1987)を比較し、互いの共通点と相違点を確認しつつ、それぞれの政治性を考察していきたい。
二つの作品に共通するのは、歴史が語られるものという見方であり、個人の記憶を通して蘇る歴史は、いずれの作品でも亡霊性を帯びている。Beloved のSetheは、自分の子殺しを正当化するナラティヴを作り上げ、それを否定するコミュニティーとは隔絶した生活をしている。しかし、彼女の生活には殺した子供の亡霊が入り込み、そのナラティヴの正当性を常に脅かし続ける。BelovedはSetheを責め続け、狂気の状態まで追い詰め、結果的に歴史のやり直しを迫る。「子殺し」から、子を守るための戦いに至る意識の変革は、Setheの奴隷制にまつわる記憶の掘り起こしを伴い、奴隷制がまとわりついた価値基準の解体をも意味している。
一方、Arc d’X のSallyは、Thomas (Jefferson)に陵辱された経験から、Thomasを殺すことによって自己の解放を実現するというナラティヴを作り上げている。しかしSallyは、実は彼のことを愛しており、奴隷としての彼女はその愛によって苦しむ。Sallyのこの苦しみは亡霊性を帯び、時空を超え、世代を超えてもう一人のSallyの意識の中に入り込み、奇怪な生物を彼女の子宮の中に生み出す。彼女の葛藤は、そもそもThomasが「幸福の追求」に奴隷制から得られる淫靡で嗜虐的な悦びを忍び込ませたために生まれたものであり、アメリカの歴史、政治に内在する葛藤を象徴している。SetheとSallyを苛み追い詰める亡霊は、恐ろしい力を備えているがゆえに、「アメリカ」というディスコースを揺るがせ、アメリカの歴史、政治の検証を迫るものである。
このように両作品においては、亡霊あるいは亡霊性といったものが共通した政治的効果を生み出しているが、結末を並置してみると指向性の違いがはっきりと浮かび上がる。Beloved では、Setheの新たな生活の基礎に、正邪併せ持つコミュニティーの力が据えられている。一方、Arc d’Xでは、歴史を見直し書き直す力が、自己犠牲的愛を持つ個人に委ねられている。こうした指向性の違いを踏まえ、Arc d’X の結末部分の議論においては、頻出するシニフィアンとしての「色」について再検証を試みる。Arc d’X では、テクスト全体を通して「白」と「黒」の意味の揺れや交替が起こり、それ自体がSallyの葛藤を象徴しているが、結末部分では、MorrisonがPlaying in the Dark において指摘した負の意味を押し付けられた「黒」が解体され、自己犠牲的愛に包まれた「黒」が創出されている。
上田麻由子 首都大学東京(非常勤)
Richard H. Brodheadは、The School of Hawthorne(1986)で、アメリカ文学史に連綿と受け継がれるNathaniel Hawthorneの影響をたどった。Brodheadによると、Hawthorneはアメリカ文学史の礎となっただけでなく、<いま・ここ>にいるわたしたちが、いかに過去の影響下にあるのか、そして、いかにそこから逃れようとあがいているのかを示す、「過去」に関する歴史学者だという。それゆえ、Hawthorneの作品は、後の世代の作家が自由に「使える」opennessを持っていると同時に、その行為に対してつねに自問を強いるものになっている。
Paul Austerは、この“The School of Hawthorne”の1人に数えられるべき現代作家である。特に、Hawthorneの短編“Wakefield”(1835)の主人公Wakefield は、Ghosts(1987)のBlueやThe Locked Room(1987)のFanshaweをはじめ、多くのキャラクターのプロトタイプになっている。彼らはWakefieldのように、ある日突然、偶然に、あるいは成り行きで、それまでの自分の人生から切り離されて、ほとんど隠遁者のような生活を強いられる。ただ、Auster作品の主人公がWakefieldと違うのは、隠遁生活のなかで、「書く」ことを手がかりに、自己を理解しようとする点である。
2002年に出版されたThe Book of Illusions には、そのような「書く」人物である主人公David Zimmerに加えて、もう1人、別の書き手が登場する。それは、Alma Grundという左の頬にあざを持つ女性で、彼女はHawthorneの別の短編“The Birth-Mark”(1843)に出てくるGeorgianaになぞらえられている。“The Birth-Mark”において、科学者のAylmerは、これまでさまざまな解釈が加えられてきた妻Georgianaの左頬のあざを、「唯一の汚点」とみなし、それを取り除こうとしてその命を奪ってしまう。Kate LawsonとLynn Shakinovskyは、彼女のあざが「指し示す機能(signifying quality)」を象徴していると指摘したが、このあざが手の形をしていることから、それは「指し示す」という受動的な存在を超えて、「書く」という能動的な機能をも象徴していると考えられる。しかし、あざを取り除こうとしたAylmerや、それに従ったGeorginaとは違い、Almaは自分の頬に刻まれた「書く」能力を意識し、それを積極的に活用したにもかかわらず、結末はどちらも破滅であった。このことから、頬に刻まれた「手」はまた、自分の首を絞める「手」にもなりうるということが分かる。
そこで、本発表ではこれまであまり焦点の当たることのなかったAuster作品における女性の書き手に注目し、Austerがどのようにして、「文学的父親」たるHawthorneの“Wakefield”と“The Birth-Mark”を利用して、「書く」行為の持っている人を生かす力と、殺す力、という二面性に取り組んだのかを明らかにしたい。
下條 恵子 宮崎大学
Paul Austerの作品にみられるアイデンティティの問題は、ロゴセントリズムの崩壊に伴う自己規定の不可能性といった、いわゆる「言語的転回」のコンテクストの中で論じられることが多かったが、Moon Palace (1989)では、Columbusのアメリカ大陸「発見」や西漸運動といったアメリカ色の濃い要素が前景化され、それに連動する主人公のアイデンティティの流動性は作品のサブテクストとして描かれている。
Moon Palaceは「それは人類が初めて月を歩いた夏だった」という一文から始まるが、1969年の月面着陸によって人々のフロンティア意識が宇宙空間にまで拡大されたことは言うまでもない。アメリカ史という文脈の中で〈フロンティア〉という語が登場するとき、それは常に西へと移動し続けるものであり、アメリカのナショナル・アイデンティティ確立の気運に地理的領域を暫定的に与えたものであるというのは定説である。したがって、その地理的位置は常に更新される。ならば、常に新たなフロンティアを求めることによって確立されるアメリカのナショナル・アイデンティティもまた、フロンティアの地理的刷新に連動してその都度更新される、極めて流動的なものとなるはずである。本発表は、主人公Marco Stanley Foggのアイデンティティの流動性を、アメリカン・フロンティアの更新性という観点から論じるものである。
主人公Foggは、Fogelman→Foggと変化した彼の名前の中に「アメリカに到達すべく、霧に煙る大洋を渡る鳥」のイメージを見出し、「月面の風景によく似ている」と描写される西部へと旅する。しかし、この乱雑に短縮されたFoggという名が作中「誤称(“misnomer”)と表現されていることからもわかるように、Foggの個人的な西漸運動は、「西インド諸島」という「誤称」を持つアメリカのフロンティア開拓の暗喩と読むことができる。フロンティアがその地理的領域を明確にせぬまま西へ移動していくのと同様に、ニューヨークからラグーナビーチへと西進する物語の過程でFoggは、「兵士」、「代書人」、「父親」、「息子」といった様々な存在にながらも、これらのいかなるアイデンティティ領域にも到達することなくアメリカの最西端に到る。批評家Deleuzeは、旧世界の物語が確立してきた存在領域から逃避するように生成変化を続けるアメリカ特有の存在の仕方を “a human becoming”と呼び、代書 代書人Bartlebyをそのような集団の書き手とした。本発表では、Foggもまた、この“a human becoming”の系譜を引くという点を、彼の西漸運動の物語から論証する。