山本 裕子 同志社大学(非常勤)
19世紀末から20世紀初頭、米西戦争から第一次世界大戦を経たアメリカは、「帝国」として新しく生まれ変わろうとしており、また、そのほぼ全域で近代産業化を加速させていた。さて、この産業化の波は他のどの地域よりも遅れて南部に押し寄せたが、1920年代には葬式産業が台頭し、「アメリカ式の死」(American way of death) を確立した。Jack Temple Kerbyの研究に拠れば、家族が中心となる「伝統的」な葬式が執り行われたのは、南部辺境の最も遅い地域でも1920年代後半までであり、1930年後半にはほぼ皆無であるという。死は、家庭という私的領域から病院や葬儀会場という公的領域へと移行され、法的な規制の下におかれるようになった。William FaulknerのAs I Lay Dyingが出版された1930年とは、まさに南部に葬式革命が起きた時期であったのだ。
As I Lay Dyingの作品世界において町の人々に衝撃を与えた10日間のAddieの葬列は、この葬式産業化が完了する直前の時期だからこそ行われ得たものであった。幾多の論文が、その多くは文化人類学的見地から、Bundren一家の「通過儀礼」(rite of passage) について論じてきた。しかし、作品における「前近代的葬式」と「近代的葬式」との軋轢は、あまりにも自明すぎるためか、これまであまり顧みられることが無かったように思える。
作品を1920年代の葬式産業の勃興という歴史的文脈に置いてみたとき、見えてくるものは何か。葬式産業の産業としての確立を決定づけたのがembalmingの技術であったことを考えれば、Addieの葬列がAbraham Lincolnのそれ (Walt Whitmanの詩 “When Lilacs Last in the Dooryard Bloom’d” に詠われた) のパロディであるというTanaka Takakoの指摘は、非常に重要な意味を持つ。なぜなら、1865年に行われたアメリカ史上初の「国葬」は、20日間にわたってembalming技術を国中に宣伝し、「アメリカ的葬式」の礎となったからである。そして、Faulknerの作品において、この “Father Abraham” の立身出世を体現するかのような人物が繰り返し登場することは、多くの批評家たちの指摘するところである。また、貧しい移民の子から「国民的スター」となったRudolph Valentinoの1926年に行われた大陸横断の葬送行、「ハリウッド的葬式」も論考に値するであろう。本発表では、“national icon” の葬列を射程に入れつつ、Addieの葬式と「アメリカ的葬式」との相反を、臨終の場面・葬式・葬送行・埋葬の比較分析によって明確にし、「死の近代化」に対するFaulknerの立場を探ってみたい。