開始時刻 |
|
---|
司会 | 内容 |
---|---|
原 恵理子 |
1.Diana Sonの Stop Kiss における人種・ジェンダー・セクシュアリティと暴力 沖野真理香 : 神戸大学(院) |
2.劇場における「死」と「再生」——Terrence McNallyのDedication or The Stuff of Dreams 森 晴菜 : 大阪大学(院) |
|
内野 儀 |
3.警鐘を鳴らす——Sam ShepardのThe God of Hell におけるアメリカの危機 森本 道孝 : 大阪大学(院) |
4.予定調和の亡霊——Simpatico に見るアメリカ経済システムの行方 森 瑞樹 : 大阪大学(院) |
沖野真理香 神戸大学(院)
本発表では、韓国系アメリカ人劇作家Diana Sonがアメリカで社会問題となっているセクシュアル・マイノリティへのヘイト・クライムを取り扱った劇作品Stop Kiss (1998)を、1990年代のアメリカにおいて実践されたクィア・ポリティクスの観点から論じる。
本作品はオフ・ブロードウェイでの上演時には三度上演期間を延長されるほどの人気を博し、様々な賞を受賞するに至る高い評価を得た。舞台を現在のニューヨークに設定したこの劇は、ニューヨーカーのCallieとセントルイスから出てきたばかりのSaraの間の女性同士の恋愛を描いている。二人が出会いキスをするまでのいくつかの場面と場面の間にflash-forwardという手法をとって、二人がヘイト・クライムに遭った後の出来事が挿入される。つまり舞台上では、現在とごく近い未来の出来事が交互に描かれるのである。
この劇は、アジア系劇作家による作品ではあるが、アジア系という人種をテーマにしていない。作者Sonはニューヨーク、ひいてはアメリカにおける人種の多様性を反映させるために、この劇では登場人物の人種を特定することなく、むしろ様々な人種によって演じられるべきだと考える。また、劇中で登場人物同士が彼らの人種について言及することもない。この劇が焦点を当てているのは、二人の女性同士の恋愛関係である。本作品の特徴は、アメリカにおいて人種的マイノリティの劇作家による作品であるにも関わらず、人種に捉われずにホモセクシュアリティというテーマを扱っている点にある。
本作品は、1990年代のアメリカで提唱されたクィア・ポリティクスと響き合っている。本発表ではクィアを、カミング・アウトしたセクシュアル・マイノリティ同士の、人種や階級、ジェンダー、セクシュアリティなどのあらゆる差異を越えた結びつきと定義する。この劇で語られる、Saraに重傷を与え、Callieにホモセクシュアリティに対する罪悪感を芽生えさせることになる通りすがりの男からの暴力は、規範的セクシュアリティを維持するために行使されるものである。しかし、劇の終盤、ヘイト・クライムによって不自由な身体になったSaraを介護していくことを決意するCallieの姿は、暴力というマイノリティへの社会的抑圧のメタファーをも乗り越えて人々が結びつく可能性を示している。また、互いに男性の恋人がいるにも関わらずに惹かれ合うCallieとSaraの姿は、ホモセクシュアリティとヘテロセクシュアリティの間の境界がいかに希薄なものであるかを露呈している。つまり、ホモセクシュアリティの問題がヘテロセクシュアルの人々と無縁ではないことを私たちに気づかせてくれる。このことから、この劇は、マイノリティとマジョリティの間の境界をも乗り越えて人々が結びつきうることを示唆している点で、セクシュアル・マイノリティたちがあらゆる境界を越えて結びつくことを理想とするクィア・ポリティクスの枠にとどまらない主張を持っている。そして、あらゆる人々が自分の人生を自由に選択することの重要性を訴えているのである。
森 晴菜 大阪大学(院)
Terrence McNallyのDedication or The Stuff of Dreams は古い劇場を舞台とした演劇作品である。McNally作品には「死」のイメージが付きまとうものが多いが、本作品も例外ではない。しかし興味深いのは、本作品では「嘘」が多用され、劇場の神秘性を高めると共にその意義を問いかけている点である。
作品中、ギロチンやダミーをぶら下げた絞首台など、古い舞台装置が繰り返し登場し、「死」のモチーフとして働く。しかしそれ以上に「死」を強く印象付ける存在として登場するのがMrs. Willardである。舞台となる閉鎖中の劇場のオーナーである彼女は、ガンに侵され、余命いくばくもない。劇場の復興を願う人々に対し「演じる」ことは「嘘をつく」ことに過ぎないと劇場・演劇の無意味さと不毛性を主張する反面、病に侵され激痛に喘ぐ彼女にとり、「嘘」は自己の存在を確認する手段、つまり、生きながらえる糧となる。
Mrs. Willardとは対照的に、子供劇場の主宰であるLouは演技を通して観客である子どもたちとの交流を図る。舞台という虚構世界が子どもたちの実生活に影響を与えると信じるLouは、演劇を次世代に伝えるべく劇場の再生を切望する。注目すべきは、そのLouがゲイである点である。つまり、彼が虚構(=嘘)を演じる役者となった契機は、彼のセクシュアリティと深くかかわる。「嘘」、「セクシュアリティ」、そして「再生」のキーワードから、子供を対象とするLouの演劇活動と彼のアイデンティティの模索との関係性が浮上する。
そして最後に問題となるのが、本作品の舞台が劇場だという点である。登場人物の一人、イギリス人Arnoldは舞台となる劇場を指して、“This is your history, America.”と語る。作品中、この劇場の舞台を踏んだ数々の有名人の話が繰り返し話題にのぼるが、ここでは、劇場と歴史(アメリカ史)の関係性を巡る議論から、「死」に瀕する劇場と演劇による劇場の「再生」の意味が導き出される。
以上、本発表では、劇中における嘘と演技、病に侵される身体、演劇人のセクシュアリティとアイデンティティ、そして劇場と歴史との関連性、以上の問題を検証しつつ、本作品の劇場における「死」と「再生」のテーマを読み解いていく。これにより、ゲイ/クイア演劇としてのみ扱われる傾向にあるMcNally作品の新たな読みの可能性を提示できれば幸いである。
森本 道孝 大阪大学(院)
Sam Shepardの劇作品の中で、父親と息子、兄弟間の対立を扱い、家族という単位を中心に血縁関係をテーマとする作品群の評価は高い。それに対し、90年代以降の作品群の評価は概して芳しくないが、2005年発表のThe God of Hell は、アメリカがはらむ危機への彼の問題意識をこれまでよりも明確に扱っていて評価することができる。作品中でこの危機感を示すのは、見えざるものの恐怖を示唆するプルトニウムと、秘密の地下への隠蔽とその失敗であり、舞台に最後に残る女性が鳴らすベルは、この危機に対する警鐘となる。
まず、作品タイトルのthe god of hellは、作中でHaynesが説明する通り、Plutoのことである。この神から名がついたプルトニウム(plutonium)の影響から、Haynesは体から青色の光を発するようになり、これはさらに彼と接したFrankへ感染していく。この感染力は目に見えないものが徐々に広がっていくことに対する人々の恐怖を如実に示す。また、この影響はEmmaがこれまで育てていた植物にも及ぶ。ShepardのWhen the World Was Green(1997)という劇のタイトルから読み取れる、すでにgreenでなくなってしまった世界への彼の関心は、The God of Hell のFrankの「かつて世界は完璧だった、冷戦の時代が恋しい」という発言とリンクする。つまり、世界を完璧でなくしたのは、冷戦時代終結と時を同じくする湾岸戦争、さらには対イラク戦争へのアメリカの猛進であると言いたいと考えられる。作品の中でアメリカ国旗への言及を多用するなど、しきりに読者・観客に、アメリカという国家に対する意識を持たせようとしていることを考え合わせると、Shepardはあらゆるものに悪影響を与えていく見えざるプルトニウムの恐怖を扱うことで、知らぬうちにアメリカが世界に与えている影響の大きさを示しているのだと言える。
また、Shepardの劇作品においては、例えばBuried Child (1978)での、近親相姦の結果生まれた子供を殺害し地中に埋める行為のように、秘密の地下への隠蔽とその暴露という構図が頻出する。The God of Hell では、政府のプロジェクトの実験からの逃亡者とされるHaynesが、友人Frankと妻Emmaの家の地下に匿われるが、そこに追っ手としてやってきたWelchの巧みな誘導により、Emmaは秘密の隠蔽に失敗し、Haynesを危機にさらしてしまう。プルトニウムの由来が地獄神Plutoであり、地獄が地下にあることを考えると、秘密の地下への隠蔽と暴露についての考察と、地中に埋めようとも影響力を失わないプルトニウムの検証は繋がりを持つ。
Shepard劇の結末には、男性が舞台上を去った後に女性が残るという光景が目立つ。The God of Hell の結末では、一人残った女性Emmaが、夫に助けを求めるために、玄関のベルを鳴らし続ける。このベルは劇中で追っ手のWelchの登場の際にすでに二度鳴らされ不吉さを象徴する。ここまでの考察を踏まえると、このベルは、プルトニウムの感染力が示唆するアメリカの危機的現状に対する、文字通りの警鐘の役目を担うと考えてよい。このように考えると、The God of Hell という劇は、Sam Shepardの従来の劇作の特徴を持ちつつ、よりグローバルな視点を前面に押し出す作品と位置づけられ、評価できる。
森 瑞樹 大阪大学(院)
現代アメリカ演劇界にその名を刻み続けるSam ShepardのSimpatico (1995)は、過去に犯した「競走馬すり替え」という詐欺事件にまつわる共謀と裏切りの果てに明暗を分けた二人の人物を主軸として展開し、亡霊のように生きることを余儀なくされた男(Vinnie)がアメリカ経済界を牛耳るまでに成り上がった男(Carter)を引きずり落としにかかる物語だ。周到にプロット化された感を与えるこの作品では、暴力的で男性的なShepard劇の手法は影を潜めているものの、「欺瞞」、「過去の掘り起こし」等、これまでShepard劇で描かれてきたライトモチーフは確実に継承されている。
しかしながら、「ハロウィンの時期」という舞台設定に着目すると、その「過去の掘り起こし」がこの作品では異相を浮かべ始める。つまり、亡霊のようにあらゆるシーンでトリックを仕掛けて回るVinnieの謀策は一定のレベルでは首尾よく機能するものの、他方では予定調和的なイベントとして低次の機能しか持たず、再び現実へと回収されてゆくのだ。
冷戦期を経たソ連崩壊により相対的に勝利を得たアメリカ経済システムは、その相対性からして不全性、矛盾を内包したものであることは言うまでも無く、様々な批判、断罪が繰り返されてきた。だがそれらはアメリカが突き進んできた経済大国への過程において既に予定されたものだったと言うことも出来る。換言すれば、アメリカの経済システムが本質的に不完全なものである限り、アメリカに対する批判、断罪は内在化され回収され続けてしまうということでもある。これをアメリカ批判の一つの限界とすることも出来るだろう。そしてこのアメリカへの対抗言説の姿は予定調和的なハロウィンの亡霊としてトリックを仕掛けるVinnieが体現するところだと論じることも可能だ。だがこの作品は、そのようなアメリカ経済システムと対抗言説のあり様への痛烈なアイロニーを提示するのみではない。
本発表では、まず批判を内在化してしまうアメリカの諸相を起点として論を展開してゆく。その上で「すり替え」、「遺伝・血統」、「亡霊」等のターム、さらにこの作品が競馬にまつわる背景で展開してゆくことに着目し、アメリカ経済システムの変容とその行方、また対抗言説の可能性を探ってゆく。