開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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福田 敬子 |
1.In the Cage の読者と作者——Henry Jamesの作品におけるアイデンティティの問題 齊藤 園子 : 鈴鹿工業高等専門学校 |
2.Sheet Musicのアメリカ——戦前大衆音楽の印刷出版とジャーナリズム 中田 崇 : 和光大学 |
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宇沢 美子 |
渡邊真由美 : 福島学院大学短期大学部(非常勤) |
4.旧体制の下で——Charles W. Chesnutt, The House Behind the Cedars 第18章の役割 里内 克巳 : 大阪大学 |
齊藤 園子 鈴鹿工業高等専門学校
本発表では、Henry Jamesの作品のうち、作家や芸術家を扱う短編や中編に焦点をあて、〈作者〉と〈読者〉の役割の重複と変容に着目する。
こうした作品は、Jamesが自らを作中人物として客観化し、省察した自己再帰的(self-reflexive)な作品だと言える。また、国際テーマや幽霊を扱った作品群とアイデンティティの問題を共有しているようである。例えば、中編In the Cage(1898)は、語り手が視点の中心に置く女性電信士が読者および作者として機能している点で重要である。
雑貨店の一角にある電信局の仕切りは「社会的・職業的な深い溝を象徴する構造」であり、電信士の属する労働者階級と送信者である貴族階級とを隔てている。この電信局で電信文を処理する電信士にとって、その作業は構造の檻の中で無数の砂を数えるに等しい。
しかし、やがて電信士はある貴族の男女に惹かれ、その極端に短縮化・暗号化された電信文を読み解き、檻の外の世界を再構築しはじめる。この意味で彼女は読者である。さらに、記号のギャップを補いながら読み進める行為は、ギャップに積極的に書き入れる行為、あるいは書き換える行為である。電信士は作者として檻の外に働きかけるのであるが、自分が再構築した世界と現実との隔たりに愕然とすることになり、その活動の困難さにも直面することになる。この電信士の活動は、Jamesが “The Art of Fiction”で述べる芸術家の活動にも通じる活動である。
電信士のアイデンティティは、無数の境界を横切りながら変容するものである。実にこの女性電信士は三人称で言及されるのみで無名である。これは、この小説を読む読者に、自分自身を取り巻く「檻」に気づかせる。また電信士の活動は、James自身の作家としてのあり方にも示唆的である。Jamesは読者に、自分が残しておいた空白を作品の効果が最大限になるように埋めていくことを期待する。しかし “relations stop nowhere”という有名な言葉には、読者によって持ち込まれる記号の連鎖の介入によって、テクスト上の表象が同一性を維持できないことへの不安が凝縮されているようである。
Jamesは晩年、ニューヨーク版出版にあたって、自分の作品を読み直す読者、そして改訂する作者としての自身の役割を意識することになったようである。In the Cageのような作品は、文字を介してコミュニケーションを図る〈作者〉と〈読者〉、そしてその役割の重複の中で作品が織り上げられていく様を描いていると言える。
こうした作品における主体のアイデンティティは、James作品で多用される幽霊のアイデンティティと重なり、国際テーマの作品に見られる安定した場所の欠如と主体の流動性の問題とに関連していると思われる。
中田 崇 和光大学
楽譜の出版販売業はアメリカでは18世紀末あたりに始まったとされる。当初は、ヨーロッパからの輸入楽譜とともに、限られた一部の専門家や愛好家に向けたものだった。19世紀に入ると中産階級層を中心に自宅で音楽を楽しむ習慣が浸透し、気軽に演奏できる身近な大衆音楽が新たに出版販売の主力となった。19世紀の後半には、ピアノを筆頭に家庭における楽器の所有率が高まり、家族のメンバーが楽器を囲んで団欒の時間を過ごすという一つの構図ができあがる。大衆音楽の楽譜は爆発的に売り上げを伸ばし、「ティン・パン・アレー」の出版社たちは、大ヒット続出の時勢に乗って、絶え間なく無数の楽譜を市場に送り出した。世の中は機械化と大量生産の時代であり、楽譜出版社も音楽工場としてひたすら「商品=歌」を量産したのである。
出版楽譜はそのまま“Sheet Music”として商業的にカテゴリー化され、ラジオやレコードが普及する以前の最も有力な音楽配信メディアとなった。本発表では19世紀から20世紀初頭に流通したSheet Musicを取り上げるが、それらは単に五線上に音符が並んだだけのものではない。楽器演奏に合わせて歌うための詞に加えて、各タイトルの内容を視覚的にイメージさせる表紙カバー絵(後のレコードジャケットに相当する)もついている。 Sheet Musicは「音楽」「言葉」「装画」の三要素で構成される独特の出版物だった。
Sheet Musicはあくまでも商品であり、芸術音楽とは根本的に在り方が異なる。何よりも売れることが最優先で、買い手の意識に左右される部分も大きい。販売促進のために世間の興味関心事が大胆に題材として採用され、流行歌の基本であるセンチメンタルな物語はもちろん、最新の事件やイベント、スポーツから社会問題までが歌の主題になった。例えば、Amelia Jenks Bloomerの女性運動やCharles A. Lindberghの飛行から数多くの歌が生まれ、the Titanicの惨事さえ流行歌に取り込まれる。中でも内外の戦争は歌が量産される契機となり、実際に“patriotic songs”はSheet Musicの世界で最も活況を呈した分野であった。歌を通じて愛国心の昂揚が図られ、一方でそれに乗じた出版ビジネスも潤う。政治と大衆音楽が切り離すことができない関係にあったことは確かなようだ。
何かが起こればすぐに歌が作られ印刷にまわる。Sheet Musicはイメージ画とともにその時その時のアメリカを記録する。場合によっては情報の発信源となって大衆の意識形成にまで関与する。こうしてみると、Sheet Musicは音楽配信のメディアでありながら、同時に新聞や雑誌と似た性質をもつ「報道と言論のメディア」でもあった、と考えることはできないか。本発表では、まずは戦前に印刷出版されたSheet Musicの世界を概観する。そして、「楽譜=音楽(音符)」の先入観を一度保留にして、社会・文化の側面からそこに付随するジャーナリズム的性質を見てみたい。
渡邊真由美 福島学院大学短期大学部(非常勤)
Theodore DreiserのSister Carrie(1900)は、中西部出身の田舎娘が都会に出て、マッシャー(a masher)と呼ばれる世慣れた男性に誘惑され、結婚しないまま同棲をはじめるという誘惑小説の系譜にある小説である。だが、19世紀にもてはやされた誘惑小説と違って、CarrieはFrank Norrisなどから高い評価をうけたものの、当時の出版社や一般の読者に受容されることがなかった。本発表は、なぜCarrieが受け入れられなかったのか、という疑問に端を発し、Carrieが誘惑小説の体裁をとりつつも、誘惑小説の物語が強化しようとする社会体制を揺るがす仕掛けをもつことを明らかにしようとするものである。
Laura Hapke は、Sister CarrieをCarrieがシカゴへ出て初めて勤めた靴工場の同僚の女性労働者に注目して、都市で展開した消費を基盤とした資本主義に憧れる彼女たちを擁護する作品だと位置づけた。19世紀末以降の都市に大量に流入した移民や地方出身の労働者たちは、支配的な階級の人々からみれば、社会秩序、とりわけ性的秩序を脅かす存在であったから、19世紀後半に著されたリアリズム小説のなかでは、小説家が代弁する上位の階級の人々から排除すべき「他者」として扱われた。Carrieもまた、靴工場の同僚よりも感受性に優れているように描かれてはいるが、労働者にかわりはない。それまでの小説の定式からすればCarrieは、誘惑され身を持ち崩した貧しい女性として、社会から排除され不幸な結末を迎えるはずである。けれども、DreiserはCarrie自身の充足感はどうあれ、喜劇女優として成功するという結末を用意する。
Leslie A. Fiedlerは、Dreiserらの登場によってアメリカの誘惑小説にはじめて、階級対立の背景が加わったと論じた。Sister Carrieは、Carrieのような地方出身の労働者階級の都会とモノへの憧れと共に、労働者階級の人々が都市の消費中心の資本主義の牽引役となり、排除できないアメリカ社会を構成する重要な要素となったことを描いている。Priscilla Waldは、社会学者のI. W. Thomasが提唱した、コミュニティから離れ、都会で他の人々から認知されることなく生きる「属す場所のない女性(the unattached woman)」とCarrieの類似性をみ、そのような女性たちが社会秩序を脅かす存在となりつつあったことを指摘した。名前も身分も偽り、肉親との関係も絶ってしまったCarrieは、愛人として生活することをきっかけにして、同じアパートに住む典型的ミドルクラスのMrs. Haleと友達づきあいをするようになる。このことはCarrieの立場が排除される側から排除する側へ変わる可能性を示唆する。発表では、Sister Carrieが労働者階級の台頭を背景にし、Carrieのような性的規範を逸脱した女性労働者が成功するという誘惑物語の筋を転覆させることで、支配的階級に対する挑戦を描いた作品であることを示したい。
里内 克巳 大阪大学
混血の作家Charles Waddell Chesnuttが1900年に上梓したThe House Behind the Cedars (以下HBC )は、二段構えの構成をとった長編小説である。まず作品前半部では、白い肌を持ちながらも「黒人の血」を譲り受けたヒロインRena Waldenが、「白人」としてパッシングすることで、南部の上流社会で成功しようとする。次いで後半部では、やはり自分は「黒人」なのだと思い定めたRenaが、教師として南北戦争直後の黒人児童の教育に身を捧げようとする。いずれの場合も彼女は幸福をつかみ損ね、浅黒い肌をした母の住む「杉に隠れた家」に意識を失って運び込まれる。そして、彼女に思いを寄せて駆けつけた白人青年George Tryonが、家の中に入ることなく佇む描写も反復される。ヒロインの死で締めくくられる恋愛ロマンスの体裁をとるHBCは、二枚折り絵画のような様式性を備えているのである。
しかし、このように二つに切り分けられた物語のいずれにも属さない章がある。それは小説のちょうど中間に置かれた第18章“Under the Old Regime”である。ここで語り手は物語の時間を遡り、旧体制すなわち奴隷制が敷かれていた頃に「杉に隠れた家」でいかなる出来事があったのか、という経緯を説明することになる。従来の批評において、やや異質な文体で書かれたこの章は、あまり重要でないフラッシュバックであると片付けられてきた。近年のChesnutt再評価に大きく貢献したWilliam L. Andrewsは、例外的に18章に注意を向けているものの、この章がRenaの母Mollyを主軸にした話だと考える点で不満が残る。実はMollyを中心に話が進められるのは、章の最初の部分だけであって、その後はRenaの兄でやはりパッシングをするJohnに、次いでRenaの幼馴染であり黒い肌をした職人Frank Fowlerへと焦点が移動していく。単線的に進む「物語」ではなく、むしろ「人物スケッチ」集成として捉え直したとき、この章の小説全体における重要な役割が見えてくる、というのが発表者の考えである。
本発表では、問題の18章で取り上げられる人物(Molly, John, Frank)の記述を精読し、それぞれにスポットライトを当てることでHBCという小説全体がいかなる様相を示すのかを検討していきたい。特に、差別的なステレオタイプに準拠した脇役と見なされがちなFrankに関しては、念入りに検討する。そのような作業によって、“Under the Old Regime”の章が小説の特異点であるどころか、逆に中心点であることを示してみたい。更にはそれを手掛かりとして、世紀転換期において激しくたたかわされた「人種」や「階級」をめぐる議論のなかで、HBC ひいては作者Chesnuttがいかなる位置にあるのか、という問題について新しい考えを提示する予定である。