斎藤 彩世 九州大学(院)
革命の時代に生きる青年を描いた物語The Princess Casamassima において随所で明かされるHyacinthの苦悩は,その原因が混沌としているように見え,様々な解釈の余地を残している。そのためこれまではHyacinthの苦しむ理由はどこにあるかや,最終的に何を選択したのかという点を中心に論じられてきた。代表的なものには,Hyacinthの引き裂かれたアイデンティティが階級社会の矛盾を象徴しているというRoweの意見や,Hyacinthの葛藤は美的—道徳的,「輝かしく再生しない過去」—「刷新する未来」の間にあるというTrillingの主張が挙げられる。2009年に発表されたOlteanの論文では個人—集団のプロットから考えた父母間の葛藤が指摘されている。このように社会,歴史,道徳,家族など論点はさまざまであるものの,前提にあるのはHyacinthが対極にある二者に引き裂かれているという考え方である。つまり,労働者として抱く革命への情熱と芸術家として感じる支配階級が築いた美への賞賛,フランス下層階級の母親への共感とイギリス貴族の父親への同情の間で苦悩するとされる。これらの対立はどちらも貧困と富の間の葛藤であるとまとめられる。そしてHyacinthの自殺は,一方だけを選ぶことができなかったためであると解釈されている。
しかし,Hyacinthの自殺には,貧困と富の間の葛藤という解釈では捉えられない側面がある。本発表は,根本的な問題であり,統一して見ることの難しいHyacinthの欲望を再考察することによって,Hyacinthが二者間で葛藤したのではなく,ただひたすら富を求めたことを指摘するものである。そして,結末におけるHyacinthの死は二者のうち一方を選択できなかったためではなく,死そのものに価値があったためであることを明らかにしたい。これまで父親の遺伝と考えられてきたHyacinthの美への憧れが実は育ての親の影響であることを考察し,育ての親やHyacinthの金銭観を追うことでHyacinthが富を渇望していることや死に価値を見出していることが浮かび上がってくる。したがってHyacinthの育ての親として,Miss PynsentとMr Vetchを取り上げて考察することが重要になる。貴族階級への賞賛はMiss Pynsentの「家庭の理想」に基づいており,この考え方は出版当時より少し前の下層階級の女性に浸透していたものである。また,貴族的と見られたHyacinthの皮肉な性格すらMr Vetchの人格の影響と考えられ,この代理父の金銭的援助によってHyacinthの中に審美眼が植え付けられていくのである。Hyacinthは死に高い価値を見出すと考えられるが,それはJamesの他作品のように自己犠牲の崇高さだけにあるのではなく,むしろ死がもたらす昇格という付加価値にある。Hyacinthは,革命運動では情報を与えられず「子」として「保護者」たちに疎外され,上流階級からも閉め出されていた。しかし,死によって「保護者」の側に回る権利を持つと同時に,富裕層の一員になる権利も手にする。このような観点によってHyacinthの死が,Hyacinthを操る革命の指揮者Hoffendahlや作者Jamesの意図を越えて,別の意味をもつことを本発表で明らかにする。