開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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市川美香子 |
1.The Princess Casamassima における死の価値 斎藤 彩世 : 九州大学(院) |
2.「富」という枷——The Portrait of a Lady に見る経済性 堤 千佳子 : 梅光学院大学 |
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井川 眞砂 |
3.「イノセント」を騙るサンドイッチ諸島の通信員“Mark Twain”--Roughing It のハワイ滞在記におけるユーモアの消去 平田美千子 : 関西学院大学(院研究員) |
4.最適化への欲望—産業社会の到来と時間・空間・身体をめぐる想像力 鈴木 透 : 慶應義塾大学 |
斎藤 彩世 九州大学(院)
革命の時代に生きる青年を描いた物語The Princess Casamassima において随所で明かされるHyacinthの苦悩は,その原因が混沌としているように見え,様々な解釈の余地を残している。そのためこれまではHyacinthの苦しむ理由はどこにあるかや,最終的に何を選択したのかという点を中心に論じられてきた。代表的なものには,Hyacinthの引き裂かれたアイデンティティが階級社会の矛盾を象徴しているというRoweの意見や,Hyacinthの葛藤は美的—道徳的,「輝かしく再生しない過去」—「刷新する未来」の間にあるというTrillingの主張が挙げられる。2009年に発表されたOlteanの論文では個人—集団のプロットから考えた父母間の葛藤が指摘されている。このように社会,歴史,道徳,家族など論点はさまざまであるものの,前提にあるのはHyacinthが対極にある二者に引き裂かれているという考え方である。つまり,労働者として抱く革命への情熱と芸術家として感じる支配階級が築いた美への賞賛,フランス下層階級の母親への共感とイギリス貴族の父親への同情の間で苦悩するとされる。これらの対立はどちらも貧困と富の間の葛藤であるとまとめられる。そしてHyacinthの自殺は,一方だけを選ぶことができなかったためであると解釈されている。
しかし,Hyacinthの自殺には,貧困と富の間の葛藤という解釈では捉えられない側面がある。本発表は,根本的な問題であり,統一して見ることの難しいHyacinthの欲望を再考察することによって,Hyacinthが二者間で葛藤したのではなく,ただひたすら富を求めたことを指摘するものである。そして,結末におけるHyacinthの死は二者のうち一方を選択できなかったためではなく,死そのものに価値があったためであることを明らかにしたい。これまで父親の遺伝と考えられてきたHyacinthの美への憧れが実は育ての親の影響であることを考察し,育ての親やHyacinthの金銭観を追うことでHyacinthが富を渇望していることや死に価値を見出していることが浮かび上がってくる。したがってHyacinthの育ての親として,Miss PynsentとMr Vetchを取り上げて考察することが重要になる。貴族階級への賞賛はMiss Pynsentの「家庭の理想」に基づいており,この考え方は出版当時より少し前の下層階級の女性に浸透していたものである。また,貴族的と見られたHyacinthの皮肉な性格すらMr Vetchの人格の影響と考えられ,この代理父の金銭的援助によってHyacinthの中に審美眼が植え付けられていくのである。Hyacinthは死に高い価値を見出すと考えられるが,それはJamesの他作品のように自己犠牲の崇高さだけにあるのではなく,むしろ死がもたらす昇格という付加価値にある。Hyacinthは,革命運動では情報を与えられず「子」として「保護者」たちに疎外され,上流階級からも閉め出されていた。しかし,死によって「保護者」の側に回る権利を持つと同時に,富裕層の一員になる権利も手にする。このような観点によってHyacinthの死が,Hyacinthを操る革命の指揮者Hoffendahlや作者Jamesの意図を越えて,別の意味をもつことを本発表で明らかにする。
堤 千佳子 梅光学院大学
Henry Jamesの作品,特に後期のものについては経済性を内包した作品であると評されることが多い。そこでは従来の新世界アメリカ対旧世界ヨーロッパという対比だけではなく,経済力によって相手を支配する側と支配される側,搾取する側と抑圧される側という分類が可能である。 またThe American Scene においては二十数年ぶりにアメリカを訪れたJamesがアメリカ経済の発展に伴う都市,特にNew Yorkの変貌振りに驚愕の念を抱く。
前期の作品においても,“Daisy Miller”においては文化的衝突だけでなく,アメリカが経済的に台頭してきた時代を背景に,親子がそれぞれ経済活動を象徴するものとして描かれている。
The Portrait of a Lady についてはどうだろうか。
Jamesが長い間暖めていたある若い女性がその運命に対決していくという構想を小説という建築の土台として,その後広々とした屋敷に発展させていったと序文で述べられている。さらにJamesはこの女性のイメージを「特定の『価値』」としている。この比喩があまりにもつきすぎているのは作者自身の認めるところである。Jamesが土台に置いたレンガのひとつがIsabelにもたらされた財力である。主題の中心はIsabelの意識であるが,彼女の周辺の人物の意識に大きな影響をもたらすのが,財産である。Jamesの作品の男性が手にする財産とは異なり,Isabelの得た財産は,彼女の生をできるだけ見ごたえのあるものにするため,彼女の知らないところで付加されたものである。経済的足枷から逃れるために与えられた,新たな枷である。
男性登場人物についてはそれぞれ自分の財政状況を象徴する人物として経済的視点から分類できる。Goodwoodは自らの手で財産を作り上げ,女性に対しても自分の意を通そうとするアメリカのビジネスマン,Touchett氏はThe Golden BowlのVerver氏と同様にセルフメイドマンでありながら,現在は引退して,その財産を有効に使おうとしている人物,Ralfは親の財産によって働く必要もなく,人生の傍観者的立場を取っている。この立場はJamesやその父親の立場と関連付けて考えられる。Warburton卿は貴族として受け継いできたものを時代へつなぐ役目を負っている。Osmondはfortune hunterとして登場する。彼らの思惑がIsabelの生にどのように関わってくるのか,『創作ノート』や書簡集に見られるJamesの当初の考え方と『New York版』序文に著された考えとがどのように変化していったのかを,James自身の経済的状況,当時の社会的経済状況を分析しながら考察していく。
平田美千子 関西学院大学(院研究員)
Mark Twainは記者時代に当時サンドイッチ諸島と呼ばれていたハワイにおいて通信員の仕事を引き受けた。サクラメントのUnion 紙に掲載されたその滞在記は西部読者の人気を博した。ところが,Roughing It のハワイに関する章の約3分の2は,その通信文を編集したものであるのに,オリジナルと比べてTwain独特のユーモアの勢いが減じている感が拭えない。実際,ハワイの部分のこれまでの評価は,頁数の間に合わせにすぎないと捨て置くのが一般的で,厳しいものが多い。本発表はこのような結果を招いた原因の考察を試みるものである。
Roughing It はそもそも旅行記というよりは主登場人物“Twain”の成長記であり,自伝的語りを大筋の特徴とする点においてTwainの他の4つの旅行記と一線を画している。つまり視点の時間的停滞が前提となる旅行記とは違い,作品の大部分を占める西部体験記において“Twain”は変化を遂げ,その終盤には「イノセント」ではなくなる。一躍全国の読者を勝ち得たThe Innocents Abroad では,終始一貫して「イノセントなアメリカ人旅行者」“Twain”の率直な語りが作品のユーモアの要だった。Roughing It ではその“Twain”像の完成の経緯が描かれる。「東部人」として西部への旅を始めた“Twain”は,西部での生活を経て「西部人」になる。彼のなかで両者はやがて融合し「アメリカ人」としての語り手“Twain”が誕生する。しかしこの人物像の誕生は,Roughing It においては同時に失敗と経験を経た成長に伴う「イノセンス」の喪失を意味する。西部体験記の終わりで記者としても西部生活者としても熟練となった“Twain”は,もはや「イノセンス」を頼みとする笑いの対象になり得ない。その“Twain”がハワイへ渡って再び「イノセント」を体現しようとする。読者としてはまずこの構成上の矛盾に違和感を覚えざるを得ない。
さらに,もとの通信文との比較からいくつかの問題点が浮かび上がる。第一に,西部体験記とハワイ滞在記には執筆時期に相当の隔たりがあることを考えなければならない。また,オリジナルの文章から意図的に消去された特徴や部分--特に,“Mr. Brown”の消去や当地の政治や産業のありさまを報告した社会派記事的な部分の不採用が,実はTwain独特のユーモアにうってつけの要素であり,その一番の利かせどころであったということも考えられる。加えて,前作の外国旅行記The Innocents Abroad で何度も繰り返された,異文化にたいする過剰なほどの期待が裏切られ「幻滅」に至るおかしさを描くような場面が,Roughing Itのハワイの部分ではほとんど見られないということも忘れてはならない。ハワイの“Twain”はむしろ期待通りのものを見,経験している。以上のような条件が揃っていては,The Innocents Abroad で開発したキャラクター“Mark Twain”の旅行記に不可欠なユーモアのセンスがRoughing It のハワイの章でうまく活きないとしてもやむをえないのである。
鈴木 透 慶應義塾大学
南北戦争終結後から革新主義にかけての時代が,現代アメリカの原型となる産業社会の基礎が出来上がった時代であることは衆目の一致するところである。しかし,南北戦争までは農業国の域を出ていなかったアメリカが,1880年代にはイギリスを抜いて世界一の工業国に上り詰めてしまうほど,なぜ極めて短期間に産業社会へと変貌を遂げることができたのかという理由を,資源の豊富さや移民労働力の存在といった経済的要因のみから説明することは難しい。農業社会から産業社会への急激な移行には,ライフスタイルの変更を受けいれ,新たな環境へと積極的に適応しようとする人々の意志が不可欠だったはずである。そして,その移行期間の短さは,そうした時代の変化に乗り遅れまいとする強迫観念めいた想像力こそが,産業社会の急速な出現の陰の立役者であった可能性を暗示する。アメリカにおける産業社会の急速な出現の持つ意味を明らかにするためには,その種の危機意識の源泉・構造・射程をより鮮明に捉える作業がさらに必要であろう。
そこで本報告では,身体に対する危機意識に根ざした,身体を最適化せんとする発想が,文学テクストを含む社会の諸言説が連携する形で,19世紀後半のアメリカ社会でどのようにうごめいていたのかに着目し,それこそが南北戦争後の産業社会への急速な移行を演出する重要な歯車であった可能性について検証する。その際,本報告では,①そうした強迫観念の重要な源泉が産業社会内部というよりはむしろ南北戦争における人々の諸経験に由来すること,②その意味において産業社会への移行は,南北戦争を原体験とする,時間・空間・身体(ないし行動)をコントロールしようとする発想が社会・文化の諸領域へと浸透していく過程として捉え直すことができること,③そうしたプロセスに科学的言説が関与することで,最適化への障害物や淘汰されていくことに対する危機意識が増幅され,その痕跡は文学テクスト(Charlotte Perkins Gilman やW.E.B.DuBoisなど)にも止められていること,の三点に言及する。具体的には,自然時間から機械時間へのシフト,公衆衛生運動と伝染病対策,テイラーシステムと科学的経営管理,空間の差別化や行動の制限(環境保護,カラーライン,性の役割分担とヴィクトリアニズム),社会進化論と優生学,移民に対する同化政策と国旗崇拝,余暇の再編(食品開発とスポーツの近代化)など,この時代の身体を取り巻く多岐に渡る話題を経由しながら,身体の最適化への欲望が,産業社会を効率化しそれに乗り遅れないための知の追求であったと同時に,それが軍隊モデルともいうべきものを密かに産業社会後のアメリカへと接木しながら「アメリカ人」なるものの理想像をめぐる闘争をも生み出していた可能性を提起し,産業社会を手繰り寄せた想像力の歴史的意味を論じてみたい。