1. 全国大会
  2. 第49回 全国大会
  3. <第1日> 10月9日(土)
  4. 第1室(11号館 6階 1161教室)

第1室(11号館 6階 1161教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
増井志津代

1.歴史の深さ—19世紀アメリカの歴史記述における地質学の想像力

  山口 善成 : 高知女子大学

2.Nathaniel Hawthorne の作品に見る美術館の誕生

  竹野富美子 : 名城大学(非常勤)

長畑 明利

3.The Waste Land 草稿とダダイズム——Pound改訂を再考察する

  岩川 倫子 : 東京外国語大学(非常勤)

4.Emily Dickinsonと宗教

  小泉由美子 : 茨城大学



山口 善成 高知女子大学

 

18世紀末から19世紀半ばのアメリカ歴史記述は,ピューリタンによる予型論的な歴史観を脱し,合理精神に基づく実証的な記述を目指した時代にあたる。もちろん予型論との決別により歴史は自由になった一方,それと同時に準拠する枠組みを失い,個々の史料を積み上げることであらためて統一的な物語の提示を迫られることになる。本発表は当時の歴史家がどのような手段で歴史を語ろうとしていたか検証するためのサンプルとして,Francis Parkmanの後期著作を取り上げる。同時期の他の歴史家たちと同じように,Parkmanもまた地図や地誌情報をふんだんに織り込んだ「空間的な」歴史を試みた一人だが,彼の歴史記述がとりわけ興味深いのは水平方向にひろがった歴史パノラマに「深さ」の次元を付与したことである。

当時の歴史記述にとって,一番の関心事は変化をいかに描き,また変化がもたらす問題をいかに解消するかであった。そもそも革命の時代の歴史が変化を記述の対象とするのは当然である。例えば,彼らはヨーロッパ諸国や新大陸における君主制勢力との対比から,アメリカの新しさと自由を強調した。しかしアメリカが歴史上まれな変化を実現した国だとしても,もう一つ別の変化にさらされていたことも否定できない。つまり,建国後の変化のことである。事実,都市化や産業化により時代は変化のスピードをさらに上げていった。常識的に考えれば,歴史意識はこのような変化のプロセスから生まれてゆくものだが,建国の新しさに固執するレトリックは過去の否定と絶えざる先祖返りを要求するようになる。Thomas Jeffersonは一世代を19年と計算し,19年以上にわたって有効な法はなく,いかなる法もその期間を過ぎたらあらためて制定され直さなければならないという。つまり,定期的に独立革命を繰り返し,新しさを取り戻そうというわけである。

このように常に(建国時のまま)新しくなければならない国において,歴史は漸次的な変化をいかに描くことができたのか。地質学の層のイメージを援用したParkmanの「深い」歴史はこの問いに対する一つの答えである。それは現在と過去を隣接する層として並置し,過去をすぐ近くに感じさせつつも,現在と過去を決定的に断絶させる,いわば秩序と変化が同居した歴史記述だった。当時の地質学そのものが世界の秩序と変化の双方を理論的前提としていたことを考えれば,ここで二つのジャンルがめぐり会うことは当然と言える。さらに文化的背景としては,19世紀前半のアメリカにおける地質学ブームも考慮に入れる必要があるだろう。Parkman自身,オレゴン・トレイルの旅から帰ったばかりの1847年,集めた鉱石のコレクションをハーバード自然誌協会に寄贈し,またThe Conspiracy of Pontiac においてはインディアンを「岩」に喩えた表現で描いている。彼の歴史記述に当時の地質学の言説が影響を与えていたのは間違いない。


竹野富美子 名城大学(非常勤)

 

Jonah Siegelが指摘するように,19世紀はヨーロッパにおいて社会体制に順応しない,孤高で英雄的な「芸術家」像が出現し,それに伴って芸術という秩序のある世界への憧れが起きた時代であった。同時にこの時代は,市民社会の成熟が大きな原動力となり,現代の意味での美術館の制度が整った時でもある。1793年にはルーブル美術館が一般公開され,大英博物館も,19世紀初めのロゼッタ・ストーンやエルギン・マーブルの入手に伴い現在のような形での一般公開がされるようになった。そしてそれらの美術館は「美の殿堂」として,視覚芸術による理想的世界観を市民に提示したのだった。このような文化的遺産の集積のないアメリカでも,市民の社会教育のため,美術館や博物館の設立の動きは活発だった。19世紀に入るとPeal’s Philadelphia Museum や the Columbian Institute,National Gallery などで,博物誌の展示と共に絵画の展示も行われ,ボストンやフィラデルフィアでは芸術協会が,もっと小規模ながらも収蔵作品を公開するようになる。

本発表ではこの歴史的背景をもとに,Nathaniel Hawthorneの文学テクストに見られる美術館の表象を分析する。

Hawthorneは絵画や彫刻をしばしば著作に取り上げており,またイタリア滞在で得た美術品の知識によって,Richard H. Brodheadの言う「美術館世界」に舞台を設定したThe Marble Faun を書きあげている。Hawthorneの著作に見られる視覚芸術のモチーフや意味について多くの研究者が考察しているが,ここでは彼の文学テクストに見られる美術作品の,いわば収納方法について検討したい。The Marble Faun には実際に多くの美術館が登場するが,彼のその他の著作にも絵画を所蔵する屋敷,観客を集めて鑑賞させるジオラマなど,美術館の役割を果たす機関が現れる。これらを分析して浮かび上がるのは所有権の問題と,作品と鑑賞者の関係である。誰がそれを所有するのか,そしてそれはどのような形で所有されるのか。鑑賞者は,芸術作品とどのような場所で対峙するのか。

クシシトフ・ポミアンによればコレクションとは「一時的もしくは永久に経済活動の流通回路の外に保たれ」その目的のために整備された閉ざされた場所で保護を受け,視線にさらされる人工物の集合である。Hawthorneの短編,例えば ”Edward Randolph’s Portrait”や”The Prophetic Pictures”では,誰かの所有物として家の奥深くしまわれる肖像画,つまり経済活動の流通経路からはずれ,収蔵された芸術作品は,しばしば不吉な影を帯びてくる。「美の殿堂」としての19世紀の美術館が芸術家像を補強し,芸術作品を聖別していった事実を逆照射するかのように,そのような保護を受けられない芸術作品が,彼の文学テクストの中では無理解な者の手によって破壊される。ここでは,Hawthorneの短編やThe Marble Faunを中心に,この美術作品と美術館の関係を考察したい。


岩川 倫子 東京外国語大学(非常勤)

 

T. S. Eliot(1888-1965)のThe Waste Land (1922)における断片構造は,Ezra Pound(1885-1972)による改訂によってもたらされたものであることはよく知られているが,さらにそこにもうひとつの要素,ダダイズムとの関係を検討するのが本発表の目的である。

Poundの改訂によって,イマジズムの「並置(juxtaposition)」あるいは「重ね合わせ(superimposition)」の技法が取り入れられたものと考えられてきた。Eliotによる草稿はスケッチ風の描写を組み合わせたものであったが,そこから描写の長い部分をPoundが大胆に削ることで,現在のような緊密な並置が生み出された。1971年に草稿が世に出た直後,たとえばGertrude Pattersonの “‘The Waste Land’ in the Making" などは,Eliotが明確にできなかった詩の統一的な構造がPoundによって明確にされたと指摘した。だが,草稿に残されたPoundの形跡は,冗長な描写や重複するイメージを削ったことがわかるだけで,『荒地』について長年言われてきたような,死と再生のテーマや,聖杯伝説といった,いわゆる神話的なモチーフによって統一することをPoundが想定していたという証拠があるわけではない。いや,想定していなかったと考えるほうが妥当である。

Poundは,Eliotの意に反して,草稿の持っていたスケッチ風のゆるやかなリズムを切断し,断片の並置として再構築したにすぎないのである。では,なぜPoundは,このようにThe Waste Landを断片化したのだろうか。その答えは,PoundがThe Waste Landを改訂したのがパリであったこと,その当時すでにチューリッヒで始まったダダの影響がパリにまで及んでいたことと,関係があるのではないだろうか。

ダダ創始者であるTristan TzaraがAndreBretonらに招聘されてパリに渡った翌年の1921年,同じく芸術刷新の志を携えたPoundもイギリスからパリに渡った。パリ・ダダの始まりは,一般にTzaraのパリ移住に始まると言われるが,1918年の “Manifeste DADA”とともに,ダダはすでにヨーロッパ中に広まっていた。1921年は,Tzara到着とともに,パリが最もダダに沸いていたころである。Poundがダダになんらかの影響を受けていた可能性は十分にある。

そこで,パリ・ダダとPoundの影響関係にまで遡及して,『荒地』とダダイズムの接点を検証したい。


小泉由美子 茨城大学

 

Emily Dickinsonの詩作品はこれまで「宗教詩」として論じられることはあまりなかった。「私は異端者」と語った詩人の言葉を文字通りに解釈し,特に1970年代以降,Dickinsonを直接的に宗教と結びつけ論じた論文は多くはない。その中で,DickinsonをGeorge Herbertと並び称される宗教詩人であると位置付けたDorothy Huff Oberhausの論文(1987) は異彩を放っている。またThe Regenerate Lyric: Theology and Innovation in American Poetry (1993) において,Elisa NewはDickinsonをEmersonの伝統に属する詩人とする当時の大方の見方を修正し,17世紀の祈祷詩の伝統に属する詩人として捉え直している。

21世紀に入り,Dickinsonと宗教というテーマはさらに多くの批評家の注目を集めている。2001年に出版された伝記のなかで,Alfred Habeggerは「Dickinsonにおいて批評家が犯す大きな過ちの一つは,詩人を1850年代の宗教潮流から引き離すことである」と語り,宗教的要素を軽視しがちであったそれまでの批評の問題点を端的に指摘している。Jane Donahue Eberwein (2004) もまた19世紀ニューイングランドの歴史的コンテクストにDickinsonを再配置することの意義を強調している。このテーマがDickinson研究の主要なテーマの一つとなっているという現状を踏まえ,本発表ではDickinsonの宗教詩の分析を通し彼女とピューリタニズムを結ぶ縦糸を探究したい。

Dickinsonが当時の福音派の教義に対し懐疑的であったことはよく知られた事実である。一方Dickinsonが「祈りの詩人」であったことはあまり知られていない。また多くの批評家は,1850年代以降Dickinsonは宗教に興味を失ったと見ている。しかしながらElizabeth Holland宛の手紙 (1853〜1886) を読むと,宗教詩人Dickinsonの一端を垣間見ることができる。Dickinsonの詩と手紙を読んで総合的に判断すると,宗教に対する詩人の関心は生涯続いていたと考えるのが自然であろう。

科学の時代に青年期を迎え,Dickinsonは自分の問いに答えを提供しうる科学の力を十分認識していたが,科学で全ての謎を解くことができるとは思っていなかったようだ。例えば “ ‘Faith’ is a fine invention” (Fr 202) では,信仰と科学を両天秤に掛け,緊急時には「顕微鏡」のほうが信頼できると語りながらも,信仰の力によってしか見えないものがこの世に存在することも同時に暗示している。手紙のなかでDickinsonは“One”という言葉が内包する神秘は信仰の力によってしか解明できないと明確に書いている。

本発表では,Dickinsonの詩における神学と詩学の相関関係を探りながら,詩人がどの様に伝統を継承し,刷新していったかを具体的詩作品のなかに検証する。