池田 幸恵 広島大学(院)
F. Scott Fitzgeraldによる第5作目であり、その死によって未完のままとなってしまった最後の長編小説The Last Tycoon(以下LT)では、Cecilia Bradyが自身の体験を回顧する形式を取りながら、タイトルが示す通りの「最後の大君」であるハリウッドのプロデューサーMonroe Stahrと、ハリウッドを理解してもらうことの困難さについて語る。そして、Ceciliaは、“When I was at Bennington some of the English teachers who pretended an indifference to Hollywood or its products really hated it. Hated it way down deep as a threat to their existence.”と、大衆的なものを軽視し、ハリウッドを敵視する文学者を批判する。しかし、この大衆的なものを軽視する傾向は、LT以前に長編作品こそ本当の文学と自負していたFitzgerald自身の文学観に通じるものである。
ところで、Fitzgeraldは1937年から三度目のハリウッドでの脚本家の仕事に従事する。作家としての名声を失ったFitzgeraldの三度目の脚本家の仕事は、彼にアメリカ文学界を外から眺め、文学を相対化する視点をもたらした可能性がある。その結果生じた変化が、上述したCeciliaの文学批判には窺えるように見える。事実、Fitzgeraldのそれまでの短編とLTでのハリウッドの描き方や、“The Crazy Sunday”とLTでのIrving Thalbargをモデルにした人物の捉え方の違いには、その変化が明確に現れている。従って、LTを映画と文学の対立の物語として描くことで、Fitzgeraldは作中のStahrの映画製作に関わる問題を論じているだけでなく、彼自身の著作姿勢に関わる大きな問題と正面から向き合っていたと言うことができる。プロデューサーStahrの苦悩は、文学者Fitzgerald自身の苦悩の裏返しであり、Fitzgeraldはそこに作家としての自己批評を籠めながら、それまでのモダニスト作家という自身の文学的立場から抜け出て、新たな文学の可能性を模索していたと考えられるのである。
そこで本発表では、Ceciliaの視点を通しながらStahrについて物語るという枠組みを用いて明らかにされる映画の問題を分析し、そこからFitzgeraldがハリウッドでの体験から新たにどのような文学観を獲得したかを明示したい。