藤江 啓子 愛媛大学
“The Piazza”(1856)で描かれる風景は、バークシャー地方を背景とする。当時、バークシャー地方を含む合衆国北東部田園地帯は景色が良いことで知られ、多くのピクチャレスク愛好家が訪れた。作品において、語り手の住む家のあたりの景色も「絵描きたちの天国」と述べられる。作品はそのようなピクチャレスクな風景の背後に潜む山の住人、とりわけ女性の苦境を描いたものであるといえる。
美しい風景を呈するグレイロック山の「一点の輝き」を目指す語り手の旅は地球規模のものであり、そこにはイギリスとタヒチという世界の中心と周縁が内包されている。語り手の旅は「妖精の女王」が住む「妖精の国」へ向かう。これはEdmund Spenser作The Faerie Queeneへのアルージョンであり、イギリスとElizabeth女王が意図されていると思われる。The Faerie Queene冒頭に付せられたSpenserからWalter Raleighへの手紙によると、妖精の国はイギリス、妖精の女王はElizabeth女王陛下であるという。一方、語り手の旅は「内陸の船旅」とも述べられ、南海への船旅のイメージで描かれる。辿り着いた山小屋には実際にはMariannaという孤独と貧困に苦しむ女性が住んでいた。彼女は「タヒチの女」に喩えられ、語り手はイギリスの航海家Cook船長に喩えられる。植民地主義の支配構造が読み取れるが、Melvilleは批判的な視座を取る。語り手はMariannaに共感を覚え、またFoucauld的な権力の視線の間違いを経験するからである。
最初、語り手は、パノラマのようなピアザを作ることによってパノプティコン的、「すべてを見る」視線とそれによって得られる風景を望む。「すべてを見る」視線はMoby-Dickにおいて教会の説教壇から説教するMapple神父に見ることが出来る。世界の透明性を前提とした神学的全知全能の視線は世俗化し権力の視線となりうる。この視線の間違いを語り手は経験し、不安定な可視性によってのみ捉えられる「暗闇と共にある真実」に目覚めていく。「空洞の礼拝堂」と表現される谷川の急流によってえぐられる岩や、「荒野に向かって説教するナンテンショウ(説教壇のJack)」は権威的宗教に対する風刺を自然描写で表している。「これ以上求めるなかれ」という名の禁断の木の実、「イヴの林檎」を食べた語り手は、堕落した世界の現実へ入っていくのである。また、Mariannaからは「見られる」存在であることが判明する。
ピアザから見る風景の変化は、Spenser的なパストラリズムから反パストラリズムへ、Wordsworthのロマン主義から反ロマン主義への変化でもある。Mariannaの住む、雲の影が支配する苔むす山小屋は宇宙の隠された暗闇の真実である。ピアザ上での想像の旅は、ピクチャレスクな風景に潜む宇宙の悲惨な現実を朧に見せてくれる。グレイロック山は「宇宙規模の山」であり、語り手の想像の旅は世界の中心と周縁を横断し、また、宇宙の暗く不可解な内部へ入っていく。全宇宙構造を持つと言える。