開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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伊藤 章 |
1.「アメリカ」を探す旅——East Goes West におけるエグザイル、移民、コスモポリタン 松本 ユキ : 大阪大学(院) |
中村 理香 |
2.Highway 99を走る——Lawson InadaとGary Snyderの詩における移動とアイデンティティの表象 吉岡 由佳 : 神戸大学(院) |
風呂本惇子 |
3.アメリカへ渡ったキャリバンの子どもたち——Elizabeth Nunez作品にみるカリブ移民をめぐる諸相 岩瀬 由佳 : 東洋大学 |
4.セッションなし |
松本 ユキ 大阪大学(院)
朝鮮系アメリカ文学の父祖として知られているYounghill Kang(1903-1972)は、自伝的フィクションEast Goes West (1937)において、東洋と西洋の出会いを描いた。作者Kangの分身である主人公Chungpa Hanは、近代化の波の中で、祖先の伝統と深く結びついた故国朝鮮が失われていくのを感じ取り、東から西へと向かう。Hanにとって、東から西への移動は、東洋の伝統の死を意味し、西洋近代の空間性、時間性の中で個人として生まれ変わることと結びついている。1921年にニューヨークへと辿り着いた彼は、アメリカ人として生きていくことを希求するが、西洋の学問を突き詰めても、物質的な上昇を追い求めても、人種的偏見や物質主義によりアメリカ人となることを妨げられる。
Hanの物語は、環境や時代の変化だけでなく、人との出会いによっても変化していく。アメリカにおける良き助言者である二人の朝鮮人KimとGeorgeとの関係性の中で、Hanはアメリカにおける自分の居場所を探る。作品中で、Georgeは実利主義が深く根を下ろした世界で経済的上昇を求める労働移民として、Kimは美的精神の世界に住むエグザイルあるいはコスモポリタンとして描かれているが、Hanはその中間に位置することで自己を形成していく。更には、二人の友人を手本とし、Hanは運命の女性Tripと出会うことにより、アメリカ人として生きていくことを選択する。アメリカを探求する三人の旅路は理想の女性を追い求めることと重なってくる。移動の経験そして人との出会いは、彼らにとって、新たな人間として生まれ変わることを意味するのだ。
本発表では、アメリカを彷徨いつづけるHan、Kim、Georgeが、アメリカ社会に根づく人種的偏見や物質主義と格闘しながら、三者三様に経験した旅に焦点を当てる。どこにも帰属することができず、移動を経験し、変化にさらされている彼らは、常に自らを作り変えている。また、アメリカ社会への適応を通じて、物理的、精神的なホームとしてのアメリカを追い求めると同時に、アメリカ社会の人種主義や物質主義を批判的に見つめている。彼らは、故国を喪失したうえに、アメリカにおいても法的な市民となることを許されず、いかなる国民国家のアイデンティティにも回収されない周縁的な存在であり続けている。このような周縁的な位置からアメリカにおける自分たちの居場所を見出そうとする三人の旅路が、様々な空間、時間、他者との関係性によって経験されていることを考察することで、East Goes Westという作品が、アジア系アメリカ人の視点から「アメリカ」という枠組みを捉え直し、個々の経験から浮かび上がってくる流動性や多様性を描き出していることを探求したい。
吉岡 由佳 神戸大学(院)
1971年にアジア系として初めて大手出版社から出された詩集Before the Warを生みだした日系三世詩人Lawson Inadaは、朗読パフォーマンスを好んで取り入れた詩人でもある。Inadaら三人のアジア系詩人による詩集The Buddha Bandits Down Highway 99 (1978)は、アジア系ミュージシャンと共に1977年にカリフォルニア州立大学で行われた朗読パフォーマンスを基に編集されている。本詩集は、3つに分けられたセクションをGarret Hongo、Alan Chong Lau、Inadaの順で担当し、それぞれの故郷であるGardena、Paradise、Fresnoを結ぶHighway 99を走る旅を描いた作品である。また、この詩集に収録された作品にはジャズの形式が度々取り込まれ、詩行のリズムを統制している。人種差別によって沈黙させられたアジア系のアイデンティティへの違和感に対して、ジャズや話し言葉のリズムを起爆剤に詠いあげるInadaの詩作は、ビート詩における音楽的要素やカタログ的手法からの影響が指摘できるだけでなく、社会規範に束縛されていた感性を解放するビート詩の特徴も受け継いでいる。
さらに本詩集は、ビート詩人Gary Snyderのボリンゲン賞受賞作品Mountains and Rivers Without End (1996)に収録された長詩“Night Highway 99”の詩形と主題の両面において共通点が多い。SnyderもInadaらと同様にHighway 99をドライブしながら、風景や出会った人々を描写している。全く異なるバックグラウンドを持ちながら、同時代に活躍したSnyderとInadaが、Highway 99にアイデンティティ模索の場を求めたことは注目すべき点である。また、ハイウェイでの移動において、人々はアメリカ文化の影響を絶えず受け、出発地と目的地を繋いだり、切り離したり、それぞれの要素を保持したりしながらアイデンティティを変容させる。その過程は、移民の海を越えた越境の縮図とも重ね合わせることができる。アメリカの日常生活に不可欠なハイウェイの象徴的意義を考察することは、アメリカにおける移動とアイデンティティの関係性を明らかにする手がかりになる。
そこで本発表では、まずビート詩人とInadaらアジア系詩人との影響関係を明確にする。その上で、Inadaらが、Highway 99を「川」(“river”)に喩えている点を考慮にいれながら、Snyderの“Night Highway 99”とInadaらのThe Buddha Bandits Down Highway 99におけるハイウェイの表象の比較分析を試みる。そして、ハイウェイとアイデンティティの関係性を詳細に検討することで、ビート詩の踏襲にとどまらず、アジア系アメリカ人としての流動的なアイデンティティを構築するアジア系詩人らの詩作における独自性を明確にしたい。
岩瀬 由佳 東洋大学
キャリバンは、シェイクスピアの『テンペスト』においてプロスペローに悪態をつく醜悪な半獣人として描かれているが、それをコロニアリズムの観点で読み解くとき、プロスペローとキャリバンは、「支配者」対「被植民者」にしばしたとえられる。本発表では、エリザベス・ニュネッツ(Elizabeth Nunez)のGrace (2003)をもとに、「キャリバンの子どもたち」である旧イギリス植民地出身のカリブ移民たち、特にアフリカ系カリビアンがアメリカへ移住した際に直面する諸問題に着目しながら、そこに複雑に絡み合う人種とエスニシティ、ジェンダーギャップに関して考察する。
旧イギリス領トリニダード・トバゴ出身の主人公ジャスティン(Justin)は、若き日に故郷を離れてハーバード大学で学び、ニューヨークの大学で英文学の教授の地位を獲得した知的エリートである。移民でありながら、ブルックリンに瀟洒な家を所有し、アフリカ系アメリカ人の妻、小学校教師のサリー(Sally)と幼い娘とともに安定した暮らしを送っているかにみえる。しかし、突然、夫婦の間に軋みが生じる。それは、一見したところ倦怠期にさしかかった夫婦のありふれた出来事のように思われるが、その根底には、二人の間に顕在化した緊張感をともなう差異への相互理解の難しさが潜んでいる。Jane Junnが「アメリカにいるアフリカ系カリブ移民たちは、黒人ではあるがアフリカ系アメリカ人ではない。要するに移民で黒人なのだ」と指摘するように、両者にはアメリカ社会の中で同じ黒人同士であるという連帯感を築けないばかりか互いに対立し、排除しあう緊張感をはらんでいるのだ。KKKに父親を殺害され、家庭を崩壊させられた過去を背負うサリーの体験した人種差別の暴力とジャスティンが祖国で経験した植民地主義の抑圧はやはり異質なもので、サリーの痛みを本当の意味で分かち合うことはできないばかりか、必要以上に傷つけあってしまう。教育によってアメリカ黒人たちの生活を向上させようとするジャスティンの意図もなかなか報われない。それに加え、「自分のための空間が欲しい」「妻であり、母親であるだけでは満ち足りない」と訴えるサリーに対して、「なぜ現状に満足できないのか」と妻を理解できないジャスティンには、実のところ父権制の枠の中に妻を囲い込みたいという彼の欲望、妻の才能への羨みが隠れている。それは、彼の教え子であり、男のホモソーシャル/ヘテロセクシャルな体制論者であったアフリカ系アメリカ人男子学生が、同性愛者に恋人を奪われたショックから自殺未遂を引き起した事件によって、大きな揺さぶりをかけられることになる。女同士の絆に恐れをなす男たちといった具合に。
ジャスティンと同様にトリニダード出身のカリブ移民であり、小説家として、ニューヨーク市立大学教授として、アメリカを活躍の場として選んだニュネッツ自身も、アメリカに渡った「キャリバンの子ども」のひとりである。これまでの彼女の作品では、男女の愛情関係よりも女性同士のシスターフッド的な関係に重きを置いてきたが、本作品では、敢えて男性の目から語り、男女間の不和から和解へとたどる道筋のなかに21世紀のカリブ移民とアメリカ社会の新たな展開の示唆を読み取ることができる。