1. 全国大会
  2. 第51回 全国大会
  3. <第1日> 10月13日(土)
  4. 第10室(全学教育棟本館C14講義室)

第10室(全学教育棟本館C14講義室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
伊藤 詔子

1.Terry Tempest Williamsの作品に見られる場所的転回について

  岩政 伸治 : 白百合女子大学

2.On the Nature of Literary Genius in Thomas M. Disch’s Camp Concentration

  Ian Stuart Garlington : 大阪大学(院)

日比野 啓

3.Topdog/Underdog に見る想像の家族

  穴田 理枝 : 大阪大学(院)

古木 圭子

4.ディスタント・リズム——Orpheus Descending に於ける「視線」と「音楽」について

  相原 直美 : 千葉工業大学



岩政 伸治 白百合女子大学

 

アメリカの女性ネイチャー・ライターにしてエコフェミニスト、Terry Tempest Williams(1955 - )の21世紀に入ってからの作品を概観すると、2001年9月11日の世界同時多発テロ以降、作品の主題を環境問題から民主主義の問題へと大きく舵を取っているように見受けられる。本発表は、Williamsが首都ワシントンで遭遇した自身の同時多発テロ体験をモチーフにしたエッセイ、”Scattered Potsherds” (2001)、Henry David Thoreauの作品Waldenに寄せられた前書き”Double Vision” (2003)、そしてアメリカ民主主義のWilliams流の理想を描いたThe Open Space of Democracy の3つの作品を取り上げ、Williamsがネイチャー・ライターとしてのアイデンティティを維持しながら民主主義の理想について語る上で、議論の橋渡しに一つの修辞的戦略が機能していることを、”Double Vision”の中で使われている”koan”という言葉をキーワードに明らかにしたい。

そのためにまず、”Double Vision”において、”koan”がどういった意図で用いられ、また文中においてどういう役割をはたしているのかを検証する。Williamsが自らを東洋思想の求道者と呼んでいること、またWilliamsが作品を書き上げる上で採るレトリックに共通するのが、日々私たちが直面している「今、ここ」にある現象を理由付けしようとする一種の弁証法的構造をとることから、”koan”が禅仏教の公案を意識しているものであることは明白である。

その上で、自身の同時多発テロ体験を綴った”Scattered Potsherds”の作品構造を精査し、このエッセイが喪失の物語であり、喪失を物語ることが、これまで概観してきた世界を再構築し、新しい展望を開くという弁証法的な構造を持つことを示したい。

最後に、The Open Space of Democracy 中の最初のエッセイ、”Commencement”を取り上げ、これまで構造として示されてきた弁証法が、分裂した世論をより大きなコンセンサスへと止揚することを目論む修辞的戦略として作品中に具体化されていることを紹介したい。


Ian Stuart Garlington 大阪大学(院)

 

In this presentation I will demonstrate how, through an overwhelming number of classical literary references in the novel Camp Concentration (1968), American New Wave SF author Thomas M. Disch effectively places both science fiction and the American counterculture of the sixties within the larger framework of literary history. Despite the lack of critical attention Disch has received up until now, Harold Bloom has included him in his Western Canon, and Fredric Jameson has stated that he would like to see more research on Disch’s works. This book is set in the near future in a secret underground U.S. research center which is conducting experiments whereby genius is induced in human subjects through injecting them with a specially engineered strain of syphilis. The narrator is a poet who has been brought there specifically to interpret the statements of the genius subjects into terminology which the scientists there can understand. Within the book’s 184 pages there are hundreds of references to several of the big names of literary history including Joyce, Rilke, Mann, Goethe, Marlow, Shakespeare, Bunyan and Aquinas. In terms of narrative structure, SF author Samuel Delany points out that the first half of the book is based on Marlow’s version of the Faust story and centers on how men of letters deal with the relationship between man, God and the universe. The second half is based on Thomas Mann’s Doctor Faustus, which explains where Disch obtained the theme of inducing genius by intentionally infecting a person with syphilis. This section considers arguments of how men of science deal with the same issues of man, God and the universe.

In his exploration of the nature of genius, Disch follows Mann’s suggestion that true genius is demonic and not dictated by logic or reason. Thus when the experiment’s subjects attain brilliance, they take interest in alchemy and traditional literary works which offer access to other worlds not subject to the limitations of the modern scientific worldview?one that only allows for the possibility of a single fixed reality governed by measurable scientific laws. There are strong parallels between the setting of Disch’s story and the actual LSD experiments carried out in the fifties and sixties by the CIA under Project MKULTRA. I argue that through his literary references, which demonstrate the abilities of his syphilitic geniuses, Disch symbolically represents the insights relating to the existence of multiple realities, something commonly associated with the experience of LSD.


穴田 理枝 大阪大学(院)

 

Suzan-Lori Parksは2001年初演、2002年ピューリッアー賞受賞作品Topdog/Underdog が「家族の傷と癒しについての劇」であると語っている。黒人兄弟の同族間殺人に終わるこの物語のどこに「家族の傷と癒し」が描かれているのだろうか。

妻に追い出された兄Lincolnが弟Boothのアパートに転がり込み、2人は同居生活をしている。この兄弟は10代のころ、両親に捨てられた辛い過去を持つ。弟はかつて母の男性関係を偶然知り、母の出奔の時にも居合わせた。兄は父の女性関係につきあわされたという経験を持つ。そんな2人が両親から遺産を遺された。弟は母から、兄は父から、それぞれ与えられた500ドルである。互いが持つ親との記憶と経験、分け与えられた遺産を2人が合わせて初めて、記憶にある、あるいは想像の家族の形が再現される。

しかし兄弟それぞれの家族へのまなざしには大きな視差がある。弟は母がストッキングに入れたという遺産と家族のアルバムを大事に持ち続け、アルバムを完成させる「家族」を求め続ける。女や酒にどん欲だった父のマスキュリニティへのあこがれは、女性支配を前提とした家族像への渇望へと変換される。女性を手に入れ、兄と組んでのカード賭博で経済力を手に入れることが、彼にとってそこにあるべき想像の家族を完成させる鍵となる。

一方父からもらった遺産をすぐに使い果たした兄は、父の置いていった服を燃やし、父の不在そのものを抹消している。「最悪の家」で崩壊した黒人家族の暮らしは冗談の中でパロディとして語られる。そこには郊外で暮らす幸せな白人家族のステレオタイプが介在している。しかし両親が手に入れたのは「表はごみの山、裏はセメント工場」という場所に建つ家だった。両親は子供よりも「もっと好きなもの」のために家を捨て、その家も結局は空洞化する。兄にとって家族の姿はかつてそこにあったという痕跡でしかない。

カード賭博から足を洗った兄は、今はリンカーン大統領の扮装をして客におもちゃの銃で撃たせ、暗殺場面を再現させるショーで生計をたてている。毎週金曜の給料日に生活費の算段をする2人は疑似夫婦のようである。兄弟ともに家庭崩壊で負った傷をかかえ、貧困の中で生きる黒人として暴力や犯罪への危険な誘惑にさらされて生きる。兄の弟への思いやり、弟の兄へのあこがれの中に家族としての癒しがある。にもかかわらず、弟は親が互いに遺したのと同じ500ドルを賭けたカードゲームに兄を誘い、ゲームに勝った兄を射殺する。弟は歴史上の大統領暗殺と同じく、兄の後頭部から弾丸を撃ち込む。兄Lincolnが日々繰り返してきた暗殺ショーの最後を現実のものとしたのは、黒人家族の「遺産」を賭けた兄弟のカードゲームだった。

本発表では、まず黒人兄弟それぞれのイメージする家族像とその視差を分析する。次にそこから逆説的に前景化される、アメリカ的家族モデルの支配のメカニズムに言及する。そして最終的に兄殺しの顛末を迎える本作に込められた、黒人兄弟それぞれの想像と現実との間で増幅され、あるいは反転していく「家族の傷と癒し」についての読みを提示する。


相原 直美 千葉工業大学

 

古代から現代に至るまで、オルフェウスの神話が数多くの芸術家に多大なインスピレーションを与えてきたことは、この神話をモチーフとした大理石レリーフ、絵画、詩、オペラ、バレエ、演劇、そして映画等が数多く創作されていることからも明らかである。オルフェウスの神話に魅せられた芸術家達の中にはリルケ、アヌイ、コクトーらがいるが、Tennessee Williamsもまた、その中の一人である。本発表では、Williamsの中期の問題作Orpheus Descending (1957)を、オルフェウスの神話が投げかける「視線」と「音楽」の問題を視野に入れつつ読み解いてみたいと思う。

Orpheus Descending は、Williamsを一躍有名にしたThe Glass Menagerie(1944)よりも4年早く上演されたBattle of Angels (1940)の改訂版である。Battle of Angels は興行的に大失敗に終わったものの、Williamsは17年間という年月をかけてこの戯曲を執拗に改定し続け、再び上演にまで漕ぎ付けた。Williamsが、その過程で、戯曲のタイトルを「ヨハネの黙示録」で描かれる天使とサタンの戦いに因んだBattle of Angels からOrpheus Descending に変えているのは興味深いことである。このタイトルの変更は、Williamsが、戯曲の大筋として1940年当時のもの——閉鎖的な小さな町に降り立った蛇皮のジャケットを着た男Valが、住民の心の奥底に潜む欲望と暴力性を喚起する——を残しながらも、「オルフェウス神話」のエッセンスを戯曲に注入したことを示している。Orpheus Descending にみられる前作からの改訂部分は、オルフェウス神話を意識しながら書かれていると推測され得る。そこに垣間見られるWilliams自身のオルフェウス神話の解釈を読み解くことが、この戯曲全体の理解に大きく貢献すると考えられる。

優れた詩人で竪琴の名手であるオルフェウスは、音楽の力で冥界を支配する神ハデスを魅了し、死んだ妻を冥界から連れ帰る許可を得る。その際、ハデスは「地上に戻るまで妻の方を振り返ってはならない」という条件をつける。しかし、オルフェウスは地上近くで後からついてくる妻の方を振り返ってしまい、永遠に妻を失う羽目となる。この神話には「目」(視線)と「耳」(音楽)の問題が提示されており、本発表でもこの二つの要素に注目したい。特に登場人物の一人、幻視する画家Veeに施された改訂は示唆的である。Battle of Angels では、Veeは幻視を通して見たイエスの顔を絵に描くのだが、Orpheus Descending に於いては、幻視直後に視力を失ってしまう。幻視の直後に視力を奪われるVeeは、最愛の妻の方を振り返ってしまったが故に永遠に妻を奪われるオルフェウスを彷彿させる。同時に、Veeの「視線」の無効化は、ギター弾きのValによって象徴される「音楽」の優位性を意味している風にもとれる。この箇所を切り口として、この戯曲に提示されるWilliamsのドラマツルギーを考察してみたい。