開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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1.セッションなし |
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白川 恵子 |
2.Twelve Years a Slave における自由人と奴隷の境界線 宮津多美子 : 順天堂大学 |
新田 啓子 |
3.アウトサイダーとしてのClaude McKay ——周縁からの抵抗の可能性 古東佐知子 : 大阪大学(院) |
4.『天の馬車——ジュビリー・シンガーズの物語』のエラ・シェパードをめぐって 寺山佳代子 : 國學院大学北海道短期大学部 |
宮津多美子 順天堂大学
Twelve Years a Slave は、北部自由人であったアフリカ系アメリカ人Solomon Northupの約12年に及ぶ奴隷体験を綴った作品である。1999年、奴隷制廃止前(1772〜1866年)に出版された英語で書かれた最も面白いslave narrative(奴隷体験記)20作品のアンソロジー(I Was Born a Slave )を編纂したYuval Taylorは、Olaudah Equiano、Frederick Douglass、Harriet Jacobsらの著名なナラティヴとともにこの作品を選んでいる。現代では批評も少なく、作品自体あまり知られていないが、「誘拐」に始まる自由人の奴隷化プロセスを扱ったこの作品は1853年当時、発行と同時にアメリカ社会に衝撃を与えた。誘拐犯罪の被害者となった元自由人奴隷が事件の発端から救出までの詳細を自らナラティヴによって明らかにしたからである。当時市場に溢れていたスレイヴ・ナラティヴと異なるこの作品の特徴は、生還者(逃亡者)が少ない深南部の奴隷制を描写していること、識字能力を持つ自由人の視点で記録していることである。
Harriet Beecher StoweのUncle Tomとの数々の類似点(地理的類似および奴隷体験の類似点等)から、彼はUncle Solと呼ばれ、一時、時の人となった。Northupに作品を献上されたStoweは、同年発行したA Key to Uncle Tom’s Cabinで その誘拐事件を詳しく紹介している。
作品が評価されてこなかった背景には、他のスレイヴ・ナラティヴとの論調の違いや主題の曖昧さがある。例えば、Robert SteptoはNorthupの真実を立証しようとするauthenticating voiceはナラティヴの信頼性を向上させ、社会改革に有利に働いたとしながらも、外部観察者としての詮索的(inquisitive)な視線が作品の位置づけを曖昧にしたと述べている。しかし、北部に帰属する自由人Northupの客観的なヴォイスが、奴隷の知性や人間性を証明しようとした、いわば自己表象そのものを目的とする自伝的ナラティヴ作者らの主観的ヴォイスと異なるのは当然である。その違いは、Northupが自由人と奴隷の境界線を元奴隷作者とは逆方向に超えたという事実によるものであろう。
誘拐による地理的強制移動はアメリカ奴隷制の起源である奴隷貿易人によるアフリカ人の誘拐を彷彿させる。Northupは祖先の運命を辿るように、強制移動によって「人間」から「動産(モノ)」へ、その後、再び「人間」となって自由を手にした。発表では、地理的移動に伴う奴隷化プロセスや当時の人種的規範を明らかにし、自由人と奴隷の境界線を2度超えたNorthupの喪失感から、「境界線」の意味を考察したい。さらに、奴隷制の中で人間性を否定されたNorthupが作品の中で貫いた冷静かつ抑制的なヴォイスから反奴隷制のメッセージを探りたい。
古東佐知子 大阪大学(院)
ハーレム・ルネッサンスの芸術家たちのなかで、Claude McKayはジャマイカ出身であるという点において特異である。彼は20歳代前半までをジャマイカで過ごし、渡米後もハーレム・ルネッサンスのブルジョア的雰囲気を嫌い、その活動から一定の距離を保っていたとされる。
アメリカ史においても、19世紀末から20世紀前半は、カリブ移民の波が押し寄せた時期であったが、彼らの存在は近年の研究まであまり注目されることがなかった。ニューヨークにおいてカリブの知識人たちは、コミュニズムの影響下、後のブラック・アトランティックの礎となる多様な急進派グループを形成したとされる。McKayもこの時代のコミュニズムに深く関与することになるが、しかしその正式な党員となることはなかった。ハーレム・ルネッサンス、コミュニズム、そしてフランスにおけるネグリチュードなど、さまざまな活動に関わりながらも、つねにその外縁にとどまることを選択したMcKayの「アウトサイダー」としての位置を読み解くことが、彼の文学の意味を探る上で不可欠と考える。本発表ではおもに以下の3点に注目したい。
第1に、McKayは以上のようにハーレム・ルネッサンスから距離を置いていたにもかかわらず、文学史の中ではその中心に位置付けられ、作家としてアメリカ化されてきた。これはハーレム・ルネッサンスもナショナリズムに支えられた文学運動であったからであり、その多様な価値や国際性はあまり注目されてこなかったからである。本発表では、Home to Harlem (1928)やBanjo (1929)において、黒人たちのハイブリッドな存在や価値をMcKayがいかに表現しているか見ていく。
第2に、ジャマイカにおけるMcKayの位置づけも曖昧である。彼は一般にジャマイカの国民作家とは見なされない。これは彼が若くしてジャマイカを離れてしまったこととも関係しているだろうが、より本質的に、彼が表象するジャマイカ自体が両義的であったといえる。McKayは一方で、アメリカやイギリスの読者に迎合するように、都市と対極をなすイメージとしてロマンチックなジャマイカを描いたが、もう一方では、プランテーションでの搾取やグローバル経済における労働者の移動などジャマイカの村々の現実に迫ろうとしていたのである。
最後に、自伝A Long Way from Home (1937)で「私は政治家ではなく詩人である」とMcKay自身が強調しているように、黒人労働者たちの日常生活を描いた彼の作品においても、重視されているのは、単なるプロレタリア文学の枠組みに収まらない人間的・感情的な部分である。コミュニズムの政治手法に批判的な意見も寄せており、イデオロギーに完全に統治されない部分が彼にとって重要であったということを指摘したい。
ディアスポラの作家であったMcKayは、つねに文化や国家の外縁に位置しており、何らかのイデオロギー的集団の中心に位置することはなかった。しかしMcKayのこの周辺性は、批評家のHomi K. Bhabhaの言葉を借りるなら、構築された均質性に裂け目がうまれ、萌芽的なものが現れる場所でもあっただろう。アウトサイダーとしての位置から、黒か白か、右派か左派か、アメリカかカリブかといった枠組みに回収し得ない何かを模索したMcKayの文学は今なお再考に値するもののように思われる。
寺山佳代子 國學院大学北海道短期大学部
Arnaud Wendell Bontemps (1902-1973)が若い世代のために書いた歴史小説、Chariot in the Sky (1951) が今も版を重ねていることは、驚嘆に値する。この作品はアメリカ文化遺産としての黒人霊歌の重い歴史を伝えている。青少年はいつの時代も真実を求めていることを証明するものであろう。
Bontempsはハーレム・ルネサンス後期から小説家、詩人、エッセイスト、短篇小説家、児童文学者、伝記作家、劇作家、歴史家、文芸批評家、編集者として多岐に渡る活躍をする。主要作品としてはGod Sends Sunday (1931), Black Thunder (1936), Sad-Faced Boy (1937), Langston Hughesと共に編集した Poetry of the Negro,1746-1970 (1970), 編集したThe Harlem Renaissance Remembered (1972)等が挙げられるが、Chariot in the Sky は長くその選外に置かれていた。時の流れは意外なものに光を見出す。この小説は奴隷として出生した7名と自由人として生まれた2名のジュビリー・シンガーズの物語である。この9名のうち7名が新たな4名と共に、フィスク大学の財政危機を救うために、1873年、ヨーロッパへの演奏旅行をすることになって小説は終わる。この11名から成るオリジナル・ジュビリー・シンガーズの肖像画が、ロンドンでエドマンド・ハーヴェルによって描かれている。
主人公のカリブはサウス・カロライナ州チャールストンのウィロウプランテーションの奴隷であるが、北極星を頼りに逃亡したところ連れ戻され残虐な鞭打ちに遭う。やがてハーヴェイの洋服屋で働き、仕立物の技術を修得する。このように奴隷物語が展開する。南北戦争後は独学で文字を学び、熱い向学心に燃えフィスク大学に入学する。学費のために仕立物屋で働きながら学業に励む。奴隷時代に身に付けた技術に支えられて、南部再建期を生きる。カリブのモデルはメンバーの一人ベンジャミン・M・ホルムズと思われる。だがこの歴史小説が、エラ・シェパードでなく、カリブを中心とする物語に構成されているのは、意外なことと言ってよい。
エラは伴奏者とソプラノを務め、リハーサルの指導もする。また彼女は「父は1800ドルで自由となり、娘のわたしを350ドルで母の奴隷所有者から買うが、母を売ることは拒否される」と家族の物語を語る。南北戦争の従軍を経てフィスク大学経理課長のジョージ・ホワイトがボランティアで学生を集め、合唱を指導する。彼は学生が歌うので黒人霊歌を知り、それを編曲し歌詞も当世風に換える。しかし、Michael L. CooperがSlave Spirituals and the Jubilee Singers (2001)で描いた「エラは母が歌ってくれた『ゆれるよ、心地よい天の馬車』をホワイトのために歌い、黒人霊歌のすばらしさを伝える」場面は、この歴史小説にはなく、カリブがこの歌を選曲し、メンバーが歌う。Bontempsはなぜ彼女を中心人物として扱わなかったのか。あるいは公民権運動やフェミニズムを経て、エラはどのように描かれているのか。
オリジナル・ジュビリー・シンガーズが、黒人霊歌を芸術としてアメリカやヨーロッパに認識させる。エラの実像を探ることから検討したいのは、そもそも黒人霊歌を世に送り出したのは、ホワイトか、エラか、合唱団かということだ。アメリカ黒人の芸術は音楽、文学だけでなく、アロン・ダグラスの作品に見られるように、美術も黒人の実存を表現する。しかも黒人霊歌は黒人芸術の核である。
フィスク大学スペシャル・コレクションに残るジュビリー・シンガーズの資料、エラの日記から、エラの実像と虚像に迫ってみたい。