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司会 | 内容 |
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前田 一平 |
1.Columbusの航路をたどるイスレーニョ——『老人と海』における反帝国的な視座 横山 晃 : 立教大学(院) |
2.Hemingwayにおける「自我」のパラドックス——忘我の感覚から考える 田村 恵理 : 千葉工業大学(非常勤) |
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諏訪部浩一 |
3.自由と奴隷制の相互関係——Robert Penn WarrenとFaulknerにおける南北戦争 松岡 信哉 : 龍谷大学 |
4.スタインベックのTortilla Flat を読む——「ダニーボーイ」その後の物語 酒井康宏 : 米子工業高等専門学校 |
横山 晃 立教大学(院)
Ernest Hemingwayがメキシコ湾から想像力を刺激されたことは、例えば1937年出版の作品、To Have and Have Not からも明らかである。歴史的に見ればメキシコ湾は多分に政治的な空間であり、1952年に出版された寓話的な作品The Old Man and the Seaもまた、様々な視点から政治的解釈がなされている。アメリカ大リーグへの言及に見られるように、また実際にこれまでも批判的な形で指摘されてきたように、キューバで生活する老人Santiagoは、アメリカ的な夢や価値観を内面化しているとも捉えうる。加えて、マカジキによって彼の舟が北に引かれるとき、その針路は確かにアメリカへと向けられている。キューバのコミュニティに属する一方、他方ではアメリカへと向かうSantiagoの運動は、常に双方の立場に立った解釈に開かれてきた。
しかし、Santiagoはスペイン領カナリア諸島出身の移民、いわゆるイスレーニョである。キューバの反植民地主義的姿勢、アメリカの帝国主義的イデオロギーの双方に沿う形で解釈されることで、イスレーニョというSantiagoのアイデンティティは捨象される傾向にあるものの、Jeffrey Herlihyが指摘するように、カナリア諸島の移民はスペインによるキューバ支配において重要な役割を果たしたために、キューバ対アメリカという対立構造にもうひとつの視点を与える。本作のみならず、To Have and Have Not においてもイスレーニョが描かれているように、Hemingwayを魅了するメキシコ湾は、旧世界の記憶と不可分に結び付いた象徴的な空間である。
したがって本論は、西インド諸島に残存するスペイン時代の遺産が、アメリカ人であるHemingwayに与えた影響を考察する。その際、本作がその一部であったと考えられているIslands in the Stream を参照し、Columbusへの言及、コロニアル様式の建築、さらには原住民の描写が、白人移民に対するHemingwayの自己批判的な意識を浮かび上がらせていることを確認する。Herlihyが指摘するように、カナリア諸島からキューバへの移住が、スペイン主導による植民地政策の一環であることを考えるなら、Santiagoはスペインの植民地主義的欲望を代弁する人物である。しかし留意すべきは、To Have and Have Not におけるリンチされたイスレーニョ、そして本作では孤立し敗北を喫したSantiagoは、植民地主義の代弁者としてではなく、その欲望にのみ込まれ消費された個人として死に直面する点である。スペイン領から西インド諸島、そしてアメリカ大陸へと向かうことでColumbusの航跡をたどるSantiagoは、結果的にアメリカへと到達しない。アメリカなるものが再定義された戦後の社会において、イスレーニョとはアメリカの帝国主義的欲望を逆照射し、その歴史を批判的にたどるHemingwayの意識を映すのではあるまいか。
田村 恵理 千葉工業大学(非常勤)
本研究では、Ernest Hemingwayがその作品や発言において忘我の感覚というモチーフを繰り返し用いた事に着目し、彼がこれを通じて言語と身体とを逆説的な意味をこめつつ強く結びつけて示している事を指摘する。以下の三点から考察する。
I. 一体化/忘我/「愛」
「あなたを愛しすぎて、もはや私など存在しない。私はあなた、あなたは私である」という言葉は、ロマンティックな物語において「愛」が語られる際良く持ち出される表現の一つである。何者かに対して身体的な一体感を覚え、この際に忘我の感覚を味わう事。そしてこの感覚を、ロマンティックな「愛」の物語の枠組みを用いて語る事。これをHemingwayは複数の作品や発言において繰り返した。こういった「愛」の物語の登場についてまず文学の歴史という大きな範囲から考察した後、Hemingwayの作品群に焦点を絞り、Hemingwayの作品においてはこのモチーフが、言語と身体との逆説性を含んだ深い結びつきを強調する役割を果たしているという論を提案する。
II. 二つの「愛」の物語—Mariaへの「愛」
For Whom the Bell Tolls における、主人公Robert Jordanの言葉による二つの「愛」の物語を比較し、Hemingwayが描く「言語と身体との結びつきに含まれる逆説性」を具体的に示す。この物語の結末において、怪我で動けなくなったJordanは、一緒にその場に残ると言うヒロインMariaにその場から去るよう説得するなかで、Iで述べた「愛」の物語の枠組みを用いる。しかし彼の意識の流れから読みとれるのは、彼がこの枠組みを幻想と認めつつ敢えて使用している点である。彼は、この同一化と忘我の幻想を語るという行為の方に重要性を見出している。このような彼によるMariaへの「愛」の物語を言語と身体、自我の関係に注意しながら読み、自我が身体的なものというよりは「語りという言語行為」により構築されると捉える主人公の一面を示す。
III. 二つの「愛」の物語—父親への「愛」
Jordan によるMariaへの「愛」の物語には、彼の父親についての回想が重ねられている。彼はここにおいて父親に執着すると同時に、父親と一体化していく可能性に怯えている。父親から自らに受け継がれているかもしれない「臆病さ」の血に怯える彼のこの語りからは、身体にあらかじめ存在する「言語的なものとは異なる何か」によって、自らがその意思とは関係なく既に形作られてしまっている可能性を考えずにはいられない彼の様子が明らかである。こういった意味で、この作品で彼によって語られる二つの「愛」の物語は、自我の捉え方という観点においては、言語と身体への強調の置き方に著しい矛盾、逆説性を示しながら共存している事を示す。
松岡 信哉 龍谷大学
Eric FonerはThe Story of American Freedom において、アメリカにおける自由はつねに奴隷制との関わりで定義されてきたと述べている。南北戦争前の南部社会においては、自由とは労働からの解放を意味し、自由の基盤とは土地と奴隷を所有してそこから収益を得ることであった。奴隷制を基礎とし、労働力の流動性を欠いた南部社会の構造について、南北戦争以前の北部の議論では、こうして生み出される南部の経済停滞が、連邦全体の経済発展を妨げうると危惧していた。当時の北部諸州では資本主義の発展に伴って自由労働が社会の構成原理となりつつあり、無賃金で労働力を確保する南部奴隷制は、北部の資本主義的自由労働市場にとっては脅威であった。本論では、他者の隷属に基づく自由と資本主義原理との関係を、Robert Penn WarrenとWilliam Faulknerという二人の南部作家の作品を通して検証してゆきたい。
Warrenは南北戦争百周年の1961年に、北軍の大義に共感して南北戦争に赴くドイツ系ユダヤ人Adam Rosenzweigを主人公とするWilderness を上梓する。この物語では南北戦争とアメリカにおける自由の問題が、外部の視点から考察されている。Adamにとって北部は基本的人権に基づく自由を体現し、南部は野生の自然、文明未満の荒野として表象される。この二項対立図式は、北部の欺瞞が明らかになるにつれて崩壊し、Adamは南北を貫く共通原理が実は存在することに気づく。また、Wildernessの終幕でAdamに訪れる啓示は、人や財が特定の地域などとの結び付きから自由になる、資本主義時代の流動性を透視しており、拮抗する勢力の間に立つという思想を資本主義の時代のある種の倫理規範として堤示している。
WarrenのAll the King’s Men の第四章のCass MasternのエピソードとFaulknerのAbsalom, Absalom! には、貧しい境遇からプランターに成り上がる白人男性が登場する。Cass MasternとThomas Sutpenの人生は南北戦争によって転落へ向かうが、そこにもやはり自由と奴隷制の問題が見て取れる。奴隷労働は南部白人プランターの自由のインフラをなすが、奴隷や動物なみの暮らしと形容される境遇から貧乏白人が成り上がって自由を得ようとするとき、彼らは他者の自由を搾取せねばならぬアポリアに陥る。他者の不自由に基づく自由は持続不可能であることを、この二つの物語は示している。
酒井康宏 米子工業高等専門学校
本発表では、Steinbeck初期のカリフォルニアを舞台にした所謂Trilogy最後の作品Tortilla Flat (1935)をケルト文化の観点から論じたいと思う。
アイルランド民謡Danny Boy は、元々あったアイルランド民謡Londonderry Air の旋律にイングランドの弁護士Frederic Edward Weatherlyが、詞をつけたものであるが、その歌詞は戦場に息子を送り出す両親の歌として定着している。
本作品では、第1章「ダニーが戦場から帰り、家を相続し、寄辺なき人たちの保護を誓う話」(訳出は発表者)から物語が始まっていくのであるが、Danny Boy の歌詞 “But when ye come, and all the flowers are dying/ If I am dead, as dead I well may be/ You'll come and find the place where I am lying/ And kneel and say an "Ave" there for me.”の特に冒頭部分と最後の部分が、Dannyとその寄辺なき仲間たちの運命と物語の展開を暗示していると解釈したいと思う。
この作品において、まずケルト文化の表出が見られるのは、Steinbeckがこの作品を執筆するに当たって、モントレー生まれのスーザン・グレゴリーから伝え聞いた、昔から伝わるカリフォルニアの民話を基にしている点である。これはちょうど、アイルランド詩人W.B.Yeatsもその著The Celtic Twilight を執筆する際、フリンと名乗る老人から伝え聞いた、昔から伝わるアイルランド民話を基にしたのと同様な手法で、このような“story-telling”の手法はケルト特有の「語り」の手法なのか考察したいと思う。
次に、この作品のテーマをなすワインを始めとする「アルコール飲料」の解釈である。アルコール飲料は“spirit”と呼ばれ、「妖精」を表す‘ambiguity’をもつ。Dannyとその仲間たちが、ワインを飲むことによって、元々の性格であるところの「善人」が本性を表し、“Good Fellows”(「妖精」の意)となって、神秘的な‘gray twilight’(ケルトの薄明の光と色のImagery)の中でパーティーを催すという解釈を提示する。
最後に、Danny所有の2軒の家屋の焼失である。これに関しては、様々な研究者・批評家が様々な所説を述べているが、ここでは、敢えて「キリスト教」布教の問題から考察する。アイルランドでは、St.Patrickがキリスト教を布教する際に、森林等を焼かなかったのは、‘Druidism’のためではなかったのか。しかし、カリフォルニアでは、‘Carmel Mission’に見られる如く、キリスト教の布教に成功した。従って、2軒の家屋が燃えたのは、広い意味において、アメリカ文化のケルト文化に対する「パラドックス」ではないだろうか。
このように、ケルト文化からこの作品を読み解こうとすると、Steinbeckが作品作りにおいて、影響を受けた母方の血統とその伝統が垣間見られるのである。