1. 全国大会
  2. 第51回 全国大会
  3. <第2日> 10月14日(日)
  4. シンポジアムII (九州支部発題)(全学教育棟本館S30講義室)
  5. メルヴィルのBattle-Pieces

メルヴィルのBattle-Pieces

中央大学 高尾 直知

 

メルヴィルのBattle-Pieces については、近年実際の南北戦争の文脈に留まらず、より広い視点から議論がおこなわれるようになってきた。Dennis BertholdのAmerican Risorgimento (2009)がイタリア革命とのつながりからこの詩集を論じるかと思えば、Robert S. Levineらの編になるFrederick Douglass and Herman Melville (2008)では、奴隷廃止運動家ダグラスとのつながりが論じられ、またLarry J. Reynoldsはこの詩集にあらわされた思想と後期Hawthorneの戦争観との類似を指摘する(Righteous Violence [2011])。Bertholdが語るように、比較的散文作品に重きが置かれるメルヴィル研究のなかにあって、詩作に注目することがこのように新たな文脈を生みだすだろうことは想像に難くない。

自然はひとの営為に対して絶対的に無関心であり、ひとはたがいに融和することでその無関心に対抗する以外に生きのびる道はない。わたしは以前、このようにこの詩集におけるメルヴィルの詩想を論じた。その論旨はいまも変わらないが、昨今の文脈の伸張に応じて、持論の可能性を試してみたいと思う。メルヴィルは、南北戦争の「予兆」として、絞首刑台のJohn Brownを幻視するが、ブラウンの蛮行の背景には、レイノルズやEvan Cartonも語るような東部知識人らの思想潮流が影を落としていることは間違いないし、そこにはイタリア統一運動の影響を見ることができる。また、ダグラスもブラウンとは緊密な関係を持っていた。また、途絶えてしまったホーソーンとの関係が、メルヴィルの戦争観にどう関わっているかも興味深い。ホーソーンは、南北戦争中にも批判的文章を発表していた。その中では、ピューリタン的伝統を奴隷制の存在に密接に関わるものとしているが、そこにもピューリタン的系譜を持つブラウンの存在が暗示されているかに見える。こう見てくると、メルヴィルにおける戦争観の裏には、ブラウンの体現するアメリカ例外主義と、先の自然の無関心というテーマの結びつきが見え隠れしている。本発表では、Battle-Pieces から、いくつか代表的な詩を選んで解釈を試みながら、そのような歴史的文脈においたメルヴィルの戦争観を提示したい。