高橋 史朗
Philip K. Dickは多産の作家であって、かつ、一つひとつの作品にも読者の関心をかきたてるような問題意識が詰め込まれているが、同時にそれらが複数の作品で繰り返されることに創作上の特徴がある。例えば、戦争とモダニティ(ナショナリズム)、絶対的な悪や宇宙的意思と人間の(無力さの)対峙や現実(本物)と虚構(偽物)の差異の曖昧化、精神異常やドラッグの使用による幻想空間を、Dickは長期にわたって繰り返し取り上げてきた。
このようなDick作品の数多くが共有するテーマの中に異世界がある。そこに登場する人物が暮らしているのは、SFらしい未来の世界である。しかし、Dick作品の多くには、それと一線を画する奇妙な空間がさらに描き加えられている。The Man in the High CastleにおけるGrasshopper Lies Heavyの物語世界やThe Three Stigmata of Palmer Eldrichでドラッグユーザーが耽溺している幻想空間、Ubikのhalf-liferたちの世界、Flow My Tears, the Policeman SaidでJason Tavernerが遭遇する奇妙な状況は、その代表例である。
ところで、Dick作品の登場人物は、そのような彼らにとっての異世界を単に経験するだけではなく、推理小説の探偵のように、自分たちの眼前にある奇妙な状況を「解釈」しようとする。Dick作品の読者は、異世界譚の中にあるもう一つ(あるいはそれ以上)の異世界についての解釈のプロセスを登場人物たちと共有するのである。
ただし、読者が解釈するのは、現実に対する異世界ではなく、あくまでもPrimary Textの中に生じているSecondary Textである。この入れ子構造は、Kurt Vonnegutの作品に登場するKilgore Troutの手になるフィクションと相通ずるいかにもポストモダンなメタフィクションではあるものの、そうであるが故に、当時Dickが得ていた文学観を把握する糸口になると思われる。そこで本発表では、Dickの抱えた問題意識とポストモダンSFの典型的なスタイルとの関係性と、ポストモダンの潮流を俯瞰できる現在のわれわれに黄金期のDick作品が何を投げかけているのかについて考察したい。