開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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花岡 秀 |
1.愛国心と執着心に揺れ動く人々 —“Two Soldiers”に託したFaulknerの脱南部化の試み 九州大学(院) : 吉村 幸 |
2.FaulknerのThe Sound and the FuryとPoussinの絵画 “Et in arcadia ego”の関係 同志社大学(院) : 山本 義浩 |
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小谷 耕二 |
専修大学 : 並木 信明 |
4.「老い」の肖像—William Faulknerの The Mansion 相愛大学 : 山下 昇 |
九州大学(院)吉村 幸
1941年12月7日に起こった日本軍によるハワイのオアフ島への襲撃、即ち真珠湾攻撃を題材にして書かれたWilliam Faulknerの短編“Two Soldiers”(1942)は、1940年代のFaulknerに即時の金銭的成功をもたらしたものの、従来の研究においては概して「安直な愛国主義」として批評家の注目を浴びてはこなかった。事実上“Two Soldiers”は国民を戦争へと煽るプロパガンダの役割を果たすことになったと考えられるが、Shawn E. Millerが本作品の語り手にFaulkner自身の姿が投影されているとして新たな解釈の試みを行ったように、この短編には「安直な愛国主義」という一言では済ませられない一面があるように思われる。そこで本論は中心的な登場人物となるGrier家の人々に、南部地域から離れようとする人々と南部に留まる人々の対比を読み取ることで、“Two Soldiers”に新たな解釈を生み出すことを目的とする。
Grier家には愛国心に突き動かされ南部を出て行く人々がいる一方で、南部人の気質や地域性により南部から離れることができない人々もいる。前者には従軍を決意するGrier家の長男Peteが該当し、後者はPeteの母親と父親である。国の一部が襲撃されたことに対しPeteは「我慢できない」と言い合衆国の軍隊に志願することを決意する。一方で母親は「国よりも家族」が大事であり、父親は「自分の畑」即ち「自らの財」が大事であることから、Peteの従軍には賛成しない。「国など日本軍が奪ってしまえばいい」と述べる母親には国家への愛国心は見られず、国家ではなく自らの財を守ろうとする父親には合衆国のための戦いには与しないという姿勢があり、先の南北戦争で敗戦を経験し、統一した国家の一員となることに抵抗する南部人特有の気質が表れている。
Grier家の次男である語り手も兄のPeteに続いて南部を離れる人となるのだが、結局は南部を離れることができない人物として本作品に描かれている。語り手は真珠湾攻撃のニュースを聞き愛国心を奮い立たせ兄に追従して兵隊に志願するようであるが、語り手の志願の動機が本当に愛国心に根差したものなのかはっきりとしない。また南部を離れようとする語り手は、家族のいるFrenchman’s Bendの外では自らのアイデンティティを失ってしまうかのようである。不明なままの動機やアイデンティティの喪失は語り手の愛国心によって南部を離れる試み、言い換えると脱南部化の試みを失敗に終わらせてしまい、本作品の続編にあたる“Shall Not Perish”ではPeteの戦死が伝えられ、脱南部化に失敗した語り手の南部での生活が続けられることになる。この語り手の脱南部化の失敗は、国が一体となって戦うために愛国心を打ち出そうとしつつも、ついには南部を離れることのできない、作家Faulknerの南部への執着心を表していると考えられる。
専修大学 並木 信明
美術史家Erwin Panofskyはギリシアのペロポネソス半島中央部の貧しい高原地帯Arcadiaがローマ帝国時代に詩人Vergiliusによって理想郷として歌われ、ルネサンスに"Et in arcadia ego."という文句が作り出され理想化されて現代に理想郷のイメージが伝えられたことを著書Meaning in the Visual Artsの中で明らかにしている。Panofskyは、恐らく17世紀にGiulio Rospigliosiが創作したと思われる"Et in arcadia ego"の本来の意味は、話者/私がかつて理想郷にいたことを懐かしんでいるのではなく、主語はdeathで理想郷でも死は免れないことを示しているが、ルネサンス以降前者の意味で解され、文句もetの後にegoに移されて話者/私が強調されるようになったと指摘する。The Sound and the Fury第1部のMr. Compsonのラテン語の引用文"Et ego in arcadia"は、したがって、過去の理想郷を懐かしむ近代のversionであることになる。
しかし、この作品では"Et in arcadia ego"は二重の意味を持つ。第1部のBenjy sectionでは、Dammudyの死に始まり、Quentin、Mr. Compson、そして黒人のRoskusらの死と葬儀が頻出して悲劇的テーマを浮き彫りにする一方、キリスト教のArcadiaであるEdenの象徴が示される。第1部ではCaddyが登る梨の木や蛇への言及があり、第2部ではQuentinがCaddyの木をEdenのapple treeとするなど楽園の象徴として頻出している。創世記ではEveがAdamのあばら骨から生まれたことになることから、キリスト教的には彼らは両性具有の象徴であり、二重性のテーマを生み出す根源となる。叔父のMauryと甥であるMaury(Benjyの元の名)、父のJasonと次男のJason、長男のQuentinと姪のQuentinなど同じ名前を持つが性格的にまったく対照的な人物が登場するなど、この作品では人物の反復と差異が二重性のテーマを演出している。
Poussinの"Et in arcadia ego"の絵は二種類あるが、いずれも羊飼いの若者が登場し、石棺に刻まれたその碑銘を見て驚いたり、解読しようとしている。葬儀や結婚式など重要な出来事の現場から遠ざけられているBenjyは、同じように謎を解き明かす立場にあるが、この作品で解読という作業を課せられているのは勿論読者である。妹Caddyの性的堕落をCompson家の血筋の堕落と捉え、その原因を解明しようとするQuentinもlife/destinyの謎の解読者であり、解読はFaulknerの作品の重要なテーマであり、特質だといえる。今回の発表では若きFaulknerが1925年にLouvre美術館を訪れたときにPoussinの絵を見た可能性も考慮しながら、The Sound and the Furyと"Et ego in arcadia"の相互関係を探求する。
同志社大学(院) 山本 義浩
William Faulknerの長編小説The Sound and the Furyの第三章におけるCompson家の二男Jason Compsonによる一人称の語りは、第一章や二章における場面転換の複雑さや文体の難解さに比べれば非常に明快なものと言える。その理由の一つとして、Faulknerが“The Appendix Compson: 1699-1945”において「論理的、理性的で自制心がある」と性格付けしたJasonにとって、過去よりも現在の事態にどう対処するかという実際的な問題が彼の関心を占めていることが挙げられる。だが第三章で実際にJasonが関与する物事はそう単純なものではない。情報通信技術が大きな役割を果たすこの章において、電報を利用した綿相場の取引に比べ、初めに郵便局で受け取った4通の手紙はほとんど注目されていないようである。本発表では、それらの手紙が後の展開にどのような影響を与えているのか、さらに第三章と作品全体との関わりにおいてどのような役割を果たしているのかを論じる。
日中Jasonは雑貨屋の店番をしながら、度々電報局に足を向けては綿相場の動向を窺ったり、CaddyがMiss Quentinに送った金を着服するための細工を行ったりと実に忙しい。父と長男を亡くした一家の家長として生活を支えるため雑貨店で働き家族の世話を焼くと同時に、彼は自分の利益のために様々な活動を行っている。その中で注目すべきは、James A. Sneadが指摘するように、この章の記述が「交換」に極めて高い関心を払っているということである。Jasonは自らの利益を増大させるべく、綿相場の情報を電報で提供するブローカーに金を支払い、Caddyが送った小切手を贋物とすり替えることで母の目をごまかし、Miss Quentinを騙して彼女宛ての郵便為替を換金する。Caddyによって将来が損なわれたことへの贖いであるとして着服を正当化する彼は、貯め込んだ大金を最終的にMiss Quentinに持ち去られることになるが、Olga W. Vickeryがthe double ironyと呼ぶこのような事態は何故起こってしまったのか。Donald M. Kartiganerは本質的な利益を省みないビジネスマンとしての欠点をJasonに見出しているが、彼の失敗は何に由来し、どのような過程を経て生じたのか。
Jasonの未来を暗示するのは、彼が焼き捨てた一枚の手紙である。Miss Quentinが母からの送金を受け取りに店へ押しかけてきたことが影響し、彼は市場の予測を伝える電報を受け取り損ねて綿相場の取引で損失を出す。これはLorraineの手紙を焼きMiss Quentin宛てのCaddyの手紙を開け損ねることで生じた事態だと言える。女たちの要求を拒み手紙や小切手を介して過去と現在の時間的な差異を利用する「交換」によって利益を得ようとするJasonは、その利益がもたらすはずの未来を得ることに失敗するのだ。Lorraineからのメッセージとそれに対するJasonの対応を始め、手紙が彼の行動に与える影響とその意味を明らかにしたい。
相愛大学 山下 昇
The Snopes Trilogyの最後を締めくる作品となる、William Faulkner (1897-1962)のThe Mansion(1959)は1930〜40年代を主たる時代とする物語として設定されているが、制作年代である50年代という時代とその時代における作家の実人生が大きく影を落としていると考えられる。John T. Matthewsがこの作品を“Faulkner’s Cold War fable”と呼び、Laurence H. SchwartzがCreating Faulkner’s Reputationで詳らかにしているように、この時代のFaulknerは60歳代の「晩年期」を迎えるとともに、1950年のノーベル文学賞受賞を契機として、「アメリカのスポークスマン」として世界各地に講演旅行を行い、国際的な視野を広げながらも、折から激化しつつあった東西冷戦の対立に否応なしに巻き込まれていった。また、この冷戦がらみの出来事としてマッカーシズムによる思想統制である「赤狩り」が一世を風靡した。あるいは足下では公民権運動が激しく展開され、彼も人種問題に対して発言せざるをえない状況に置かれた。なお、本格的な展開は彼の死後となるものの、Betty Friedan, The Feminine Mystique(1963)の刊行に見られるように、この時代に既に女性解放運動の予兆が感じられていた。FaulknerがThe Mansionを書いたのはこのような時代のコンテクストにおいてである。
Judith Bryant Wittenbergは、作家がこの本を書いた時に60歳を超えており、小説の多くの要素が「死が近づいていることを意識した老人の作品であり、作中人物のすべてが老いており、徒労感に満ちている」と述べるとともに、Mink Snopesがほとんど作家自身の年齢であることを指摘して、「ミンクにとって死は安らかな忘却であるが、おそらくFaulknerもそこに自分の死を予見していたのだろう」と主張している。作中における死に関する描写で言えば、物語の結末の部分において、地位や名誉を得たFlem Snopesについて、その死には人生の空虚さが強調されている。そしてその死を語るGavin StevensもV. K. Ratliffも、もはや「老人」であり、物語はミンクの死に関する描写によって閉じられる。
このように作品全体を「老い」のムードが支配している本作だが、その「老い」の意味は単に「衰亡」と「無力感」のみではなく、「解放感」、「達成感」、「成熟」あるいは「新たな広がり」と呼べるものまでを含んでいる。それはすべての主要登場人物の描かれ方と物語の展開に反映されており、特にミンクとLinda Snopes Kohlの物語に顕著である。1950年代という制作時の時代背景もあり、作品における人種問題と共産主義のモチーフの扱いに、作者の新たな視野の獲得が垣間見られる。また、しばしば作者の「代弁者」と見做されるギャヴィン・スティーヴンズの最終的な認識にも、諦念と共に新たな現実感覚が見受けられる。これらが「老年」の作家の「老い」の多面的な表象である。