1. 全国大会
  2. 第53回 全国大会
  3. <第1日> 10月4日(土)
  4. 第4室(2号館1階14番教室)

第4室(2号館1階14番教室)

開始時刻
1. 午後2時00分 2. 午後2時55分
3. 午後3時50分 4. 午後4時45分(終了5時30分)
司会 内容
 

1.セッションなし

中村 善雄

2.Douglasの感じた「醜悪さ」—The Turn of the Screwにおける異性愛、同性愛、階級について

  北星学園大学 : 斎藤 彩世

3.Henry Jamesの作品における手記と幽霊

  北九州市立大学 : 齊藤 園子

別府 惠子

4.「もの」と「識別/卓越」─The Spoils of PoyntonにおけるHenry Jamesの文化批評

  一橋大学 : 町田 みどり



北星学園大学 斎藤 彩世

 

Henry JamesのThe Turn of the Screw(1898)については、長い間幽霊が実在するかどうかをめぐって議論がなされてきた。そのうちの幽霊不在説—すなわち家庭教師が幻覚を見たとする説は、家庭教師が密かに雇い主に恋をしていたという点に支えられている。これまでこうした異性愛が前面に出ていたために、本小説の同性愛について見えにくくなっていた。

作品を取り巻く状況を考えれば、本作品と同性愛は切り離せない問題であることがわかる。当時はオスカー・ワイルド裁判も記憶に新しく、同性愛への関心が高まり、同時に同性愛者にとっては発覚を恐れる時代であった。さらにJamesは、この時期に同性愛者や若い男性と「恋の戯れ」とも取れる交際を行っていた。また、Jamesの複数の作品において初老の男性と若くて美しい青年の関係が扱われてもいた。こうした状況を考慮すれば、同性愛が本作品と重要なかかわりをもつことがわかる。

こうした文脈から作品を見てみると、MilesがPeter Quintから受けた影響とは同性愛に関することであるというほのめかしをされ、家庭教師がそのように了解しているらしいことが重要になってくる。The Turn of the Screwで幽霊の実在・不在とは関係なく一貫して問題になっているのは、Milesの退学処分の理由と、子どもたちと堕落した大人たちの関係である。家庭教師はこれらの問題を関連する一つのものと考え、前任者Miss JesselとPeter Quintの不道徳な行いについて子どもたちに語らせようとする。一見すると問題視されたのは身分違いの恋愛や、性の知識を子どもに与えることの不道徳さのようだが、結末を見ると実は違うことがわかる。家庭教師はFloraに対しては堕落した霊の影響が消えないまま放っておくにもかかわらず、Milesに対しては追求の手をゆるめない。額に滝のような汗を流して苦しむMilesを拘束し、告白させ、Quintの影響が消えるのを待つ。この扱いの差異によって、実は家庭教師が同性愛を特別に問題視している可能性が出てくる。

本発表では、MilesとQuintや学友との関係はどのようなものであったか、そもそもQuintと雇い主とはどのような関係にあったのか、Milesの告白はなぜ家庭教師にとって重要であったか、などについて考察する予定である。また、前置き部分で語り手IやDouglasを登場させる意味は何か、二人の関係はどのようなものであったか、なぜJamesはDouglasと家庭教師の関係を描く必要があったかという点についても考える必要がある。こうしてさまざまな人物間における関係を当時の同性愛、異性愛の観点で考察することで、同性愛者である上流階級のMiles、Douglasと異性愛を唯一の希望とする中産階級の家庭教師の闘いが本作品の主要テーマとして描かれていることを明らかにしたい。


北九州市立大学 齊藤 園子

 

本研究は、Henry James の短編のうち手記を扱う作品を中心に取り上げ、手記と幽霊の出現との関係について考察する。

ジェイムズ作品には様々な形で手記が登場するが、手記はしばしば、幽霊が出現する場となっている。幽霊ものとして知られる中篇、The Turn of the Screw (1898) も手記の再現という形をとる。Douglasと呼ばれる男性が、自身の妹の家庭教師だった女性の手記をクリスマスイブの余興の一環として読み上げたことが序で述べられる。Douglasは同席者に促されてロンドンに使いをやり、自分の邸の、鍵をかけた引き出しからその手記を取り寄せたのだという。ただし、物語として手記を再現するのは、死期が近づいたときにDouglasが手記をゆだねたとされる人物、「わたし」である。そして問題の事件は50年以上も前の出来事で、手記を書いたという女性家庭教師もDouglasもすでに亡くなっているのだという。

幽霊はこのような、時間的・空間的に隔絶され、曖昧化された境界上に出現するようである。“Sir Edmund Orme” (1891)、“The Friends of the Friends” (“The Way It Came,”1896) といった短編にも同様の状況が描かれている。 “Sir Edmund Orme” の場合もやはり、遺稿を手にした「わたし」が、遺稿を書いた人物が「実際に起きたことを伝えているかどうかは分からない」と断りつつ、「登場人物の名前を変える」だけで再現したものという形をとっている。“The Friends of the Friends” の場合は残された日記の再現である。こうした作品では、幽霊が出現する物語に先立って、遺稿と物語との忠実な介在者であることを主張する「わたし」という執筆者が登場し、状況設定を行うのである。

手記を再現する「わたし」がいなくても、幽霊物語は十分に成立するにもかかわらず、「わたし」が冒頭で自身の存在を主張するのはなぜであろうか。しかも「わたし」の前置きは、後に続く幽霊物語の信憑性を保証するよりもむしろ、攪乱させるものであるようだ。手記を再現する「わたし」は、手記を活字化して出版するという役割を担っているのであるが、「わたし」が幽霊を語る主目的は活字化と出版にこそあるように思われる。手記がもたらす時間的・空間的な境界領域を搾取することで、自身が書き、出版することが可能になるのである。本発表では、物語中で幽霊を召喚するのが主に女性である点にも着目しながら、手記と幽霊、活字化と出版活動との関連を探究したい。


一橋大学 町田 みどり

 

本発表はHenry Jamesの中期に執筆された「作家もの」と呼ばれる短編群を補助線としてThe Spoils of Poynton (1897)を読解することにより、作品の文化批評的側面を浮かび上がらせる試みである。

19世紀後半、英米における新しい読者層の誕生に伴って文学市場が拡大し、著作業が職業として経済システムに組み込まれていったが、Michael AneskoとMartia Jacobsonは、こうした歴史的コンテクストにおいてJamesを再読し、純粋に芸術を完遂しようとした作家という従来的なJames像をうち破り、市場との交渉に積極的に取り組む姿を明らかにして、新解釈の可能性を拓いた。このような文脈において中期の短編群、とりわけ“Greville Fane”(1892), “The Death of the Lion”(1894)、“The Next Time”(1895)といった文芸生活を中心とした作品を再検討するならば、Jamesは市場原理が持ち込まれた文学状況の中で起こりつつある変化の本質を看破していたことが明らかになる。

Spoilsはこれら短編群の延長上にあり、新しい形の文化生産・消費が文化全体にもたらす影響についての思索のひとつの帰結と考えられる。雑誌連載時のタイトル The Old Thingsに示唆されているようにSpoilsは「もの」を中心とし、「もの」を所有しあるいは欲望する人々との関係を通して、ObjectとSubjectとの関係性、認識と価値の問題を巡る思索を劇化している。その際、Jamesが焦点化したのは観賞を第一義とした絵画や彫刻といった美術品ではなく、日々使用され、身体接触をともなう美術工芸品の骨董であることは重要な点である。それらは使用と観賞との二つの使用価値を兼ね備え境界が曖昧な両義的な存在であるがゆえに、見る者のまなざしの背後にある知性・美的感受性・歴史的素養といった文化能力を露呈させ、Pierre Bourdieuの言葉を借りれば「分類し、分類する者を分類する」。これらポイントン邸の蒐集品と階級・経済格差のある登場人物たちが所有する「もの」との対比、またそれらとの関係性において主人公FledaをMona, Owen, Mrs. Gerethと弁証法的に対照することによって、Jamesは認識と価値、階級と文化、また文化の継承について再定義を行おうとしていると考えられる。

また作品中「もの」の移動を推進するのは結婚と相続である。Jamesは初期のWashington Squareから後期のThe Wings of the Dove、The Golden Bowlに至るまで小説のストーリーの原動力として繰り返し “marriage plot”を利用し、とりわけ “heiress”に強い関心を示してきた。 “heiress”の結婚は文化・価値の継承において前提とされる族内婚の成否の鍵となり、文化ヒエラルキーの維持に深く関わるものだからである。本作品ではFledaはMrs. Gerethによってポイントン邸の蒐集品を真に相続すべき存在として選ばれながらもそれを「断念」することによって逆説的に想像力と倫理を兼ね備えた “heiress”となりえた存在としてとらえることができる。このような主人公の創造を経済・階級とは別の次元に文化の価値体系を創出しようとする試みとして論じたい。