北九州市立大学 齊藤 園子
本研究は、Henry James の短編のうち手記を扱う作品を中心に取り上げ、手記と幽霊の出現との関係について考察する。
ジェイムズ作品には様々な形で手記が登場するが、手記はしばしば、幽霊が出現する場となっている。幽霊ものとして知られる中篇、The Turn of the Screw (1898) も手記の再現という形をとる。Douglasと呼ばれる男性が、自身の妹の家庭教師だった女性の手記をクリスマスイブの余興の一環として読み上げたことが序で述べられる。Douglasは同席者に促されてロンドンに使いをやり、自分の邸の、鍵をかけた引き出しからその手記を取り寄せたのだという。ただし、物語として手記を再現するのは、死期が近づいたときにDouglasが手記をゆだねたとされる人物、「わたし」である。そして問題の事件は50年以上も前の出来事で、手記を書いたという女性家庭教師もDouglasもすでに亡くなっているのだという。
幽霊はこのような、時間的・空間的に隔絶され、曖昧化された境界上に出現するようである。“Sir Edmund Orme” (1891)、“The Friends of the Friends” (“The Way It Came,”1896) といった短編にも同様の状況が描かれている。 “Sir Edmund Orme” の場合もやはり、遺稿を手にした「わたし」が、遺稿を書いた人物が「実際に起きたことを伝えているかどうかは分からない」と断りつつ、「登場人物の名前を変える」だけで再現したものという形をとっている。“The Friends of the Friends” の場合は残された日記の再現である。こうした作品では、幽霊が出現する物語に先立って、遺稿と物語との忠実な介在者であることを主張する「わたし」という執筆者が登場し、状況設定を行うのである。
手記を再現する「わたし」がいなくても、幽霊物語は十分に成立するにもかかわらず、「わたし」が冒頭で自身の存在を主張するのはなぜであろうか。しかも「わたし」の前置きは、後に続く幽霊物語の信憑性を保証するよりもむしろ、攪乱させるものであるようだ。手記を再現する「わたし」は、手記を活字化して出版するという役割を担っているのであるが、「わたし」が幽霊を語る主目的は活字化と出版にこそあるように思われる。手記がもたらす時間的・空間的な境界領域を搾取することで、自身が書き、出版することが可能になるのである。本発表では、物語中で幽霊を召喚するのが主に女性である点にも着目しながら、手記と幽霊、活字化と出版活動との関連を探究したい。