石田 愛 大阪外国語大学(院)
「ジェンダー」及び「人種」はアメリカ文学において重要な分野を形成してきた。現在では「セクシュアリティ」もアイデンティティの一部となり、「クイア」と自らを呼んだ同性愛者達が社会に向けて声を発している。しかし、「クイア」という一括りにされた人達ははっきりと分節化されているとは言い難い。男性と女性の同性愛者、つまり「ゲイ」と「レズビアン」が同じレベルで議論され、共通の理論を用いて語られているのである。レズビアンの劇作家Paula Vogelは、文学の歴史そのものとそれが扱ってきた人間の歴史について、フェミニズム的視点からゲイ作家とレズビアン作家の違いを指摘する。そして、同性愛の中にも男性中心主義が確立していることを訴える。同性愛の「女性」劇作家と、同性愛の「男性」劇作家との違いは、彼女たちが、築かれてきた土台や伝統的な「声」を持たないことだ。
クイア言説は「異性愛主義」の権威の解体を促す。しかしクイア文学を、男性中心的、つまり「ゲイ」の文学としてのみ読み、伝統的な声を持たない「レズビアン」言説を分節化しないことは、男性中心の枠組みから抜け出たことにはならない。そして、この男性中心の「同性愛主義」、「異性愛主義」言説が編み出した「歴史」に組み込まれない存在、「同性愛の女性」とはどういった存在なのだろう。彼女達の「声」は聞かれ、理解されることができるのか、さらには何かに「表象される」ことは可能なのだろうか。
VogelのThe Baltimore Waltz (1992)はそのような文化的カテゴリーの「間」を描いた作品であると言える。Vogelの兄Carlのエイズによる死をもとに描かれ、劇中には同じようにCarlとAnnaという兄妹が登場する。しかし全くの実体験を書いたリアリズムではない。まず舞台は大きくアメリカからヨーロッパへと離れる。二人はホモセクシュアル、感染病を理由にアメリカ社会から離れることを余儀無くされたのだ。しかし、Annaの記憶の中に故郷「アメリカ」はあり、その社会で抑圧された思いは兄との会話や度重なるヨーロッパ人男性との性行為を通して表現される。各シーンはエピソードとして構成され、シーンの最初には外国語の動詞の語形変化がナレーションで説明される。その後その動詞の具体的な内容が、語られ、体現されることになる。
アメリカ社会で抑圧された「声」は、舞台をヨーロッパに移し、外国語で表され、どのように「読みとられ」るのだろうか。アメリカ社会からのアウトサイダーであるCarlとAnnaであるが、ヨーロッパというまたも二人が属していない世界を通して、彼らの「声」はどのように聞かれ、表象されるのか。さらにはそのような「声」は実際に表象されることはできるのだろうか。本発表では中心言説の枠組みで抑圧された声を表象することを「翻訳」とし、この概念をもとにこの作品を考えていきたいと思う。