宇沢 美子 東京都立大学
1907年に登場して以来30余年、アメリカで「日本人」の代名詞として活躍したハシムラ東郷は、白人作家ウォラス・アーウィンのペンから生まれた仮想日本人である。1910年代にGood Housekeeping に長期連載され不動の人気を確立し、1917年には映画Hashimura Togo が人気絶頂の早川雪洲主演でリリースされた。イエローフェイスとして出発した東郷が、映画のなかで正真正銘の日本人俳優によって演じられ、東郷は日本人という虚構は真実となった。だが、アーウィンの意図した東郷と映画で早川が演じた東郷は、似て非なる人物であった。本発表では二人の東郷像の相違点に焦点をあて、ハシムラ東郷の複雑な魅力に迫りたい。
ハシムラ東郷はエレイン・キムやフランク・チンらにより、人種差別の表象として批判されてきた異人種表象である。人種差別的要素が存在することは否定しないが、東郷には、一言「人種差別」の所産では終わらせられないアンビヴァレンスがある。東郷の「和製英語」は、従来ミンストレル劇で移民や異邦人を描くときに用いられてきた常套を踏襲しながらも、秩序を破壊しかねないユーモアを持つ。また一流紙に報じられた日本人学僕東郷の活躍は、それまで白人優位のアメリカ社会で無視され、在米日系社会においては蔑視されてきた学僕という職への、初の白人社会からの社会的認知を意味し、まただからこそ在米日系社会から三者三様の反響を引き出した。さらに家庭内の非熟練労働者の最下層に位置づけられる学僕という職業ゆえに、東郷は白人中産階級女性像とも直に関わった。家庭雑誌への長期連載で、問題ありの使用人という道化師的な仮面の下から、雇い主の主婦層のみならず家政学に対する鋭敏な社会批判を繰り広げることに成功した。
1910年代後半に東郷の人気は頂点をきわめ、その人気ゆえ1917年には映画がリリースされたはずだった。だが原作と映画では東郷の人物設定のみならず、戦うべき相手も、話の演出も随分と異なる。原作の東郷の最大の存在意義であった家庭礼賛の実態や女主人たちの横暴を暴くという視点は映画には見られない。また現存するこの映画のスチル写真には、洋装でも和装でもきわめてダンディな東郷/早川の姿が写し出されているが、審美的な東郷像はそれまでなかったわけではないが、やはり東郷のイラスト史のなかでは周縁的な存在にとどまる。原作の東郷は、「ハラキリ!」と威嚇の為に感嘆符つきで叫ぶことはあっても、映画の東郷のように切腹(未遂)をしたことなどない、等々、オリジナルとコピーはすさまじく異なる。特に原作の東郷はその諧謔精神を発揮するためにも、できるかぎりジャポニスムに抗い、映画の東郷はあくまでもジャポニスムに浸ってみせた。ジャポニスムに対する距離の取り方の違いにこそ、二人の東郷の最大の違いと魅力を見出すことができるのではなかろうか。