内山 加奈枝 中央大学(非)
初期の作品群、The New York Trilogy において、そのポストモダニズム的言語観から、主体の概念の死を描いたと思われるPaul Austerであるが、初期の作品から倫理的主体のありかたが模索されているように思われる。Austerの登場人物の多くは、自らの意志を超えた偶然性に翻弄され、能動的主体性への信頼は失われている。自由意志に基づく主体なくして倫理の追求は一見困難におもわれる。しかしながら、自律的主体に安息するというブルジョア思考に回帰することなく、倫理的主体の可能性が問われているように思われる。本発表では、ユダヤ人哲学者Emmanuel Levinasの思想に基づき、Moon Palace (1989)における倫理的側面について、身体と時間との関連性から論じたい。
孤児Marco Stanley Fogg は、経済的危機に陥った時、労働や奨学金などの手段を拒否し、飢えに苦しみ、家を失う。その理由として、唯一の肉親である伯父の喪失が考えられるが、親しい者が亡くなっても尚、自己から逃れることはできないという実在の苦しみからの逃走として飢えを解釈したい。飢えは、所有と定住への反問という意味で、極めてユダヤ的である。さらに、Kitty Wuとの恋愛の挫折は、予測不可能性としての他者と向きあうことの挫折と考えることができる。Levinasによれば、孤独の実在から他者に到達する道は、エロスと父性(子を持つこと)である。Kittyの堕胎によって子を持つことができないMarcoが自己充足から抜け出し、他者にいたる唯一の可能性は、祖父Thomas Effingの法外な自伝のただ一人の聞き手となり、それを語ることのできる唯一者になることにあるのではないか。他者の話を証拠なしに信じるということは、Austerの作品に繰り返えされるテーマだが、他者に応答せざるをえないのは、他者が身体のうちで絶えず自己喪失をし、老い、死んでいく存在だからである。
Levinas は、老いの刻まれた他者の顔に他者の「現前」ではなく、「痕跡」をみる。他者の現在にいつでも遅れている私は、他者と時間的現在を共有することはできない。私はいつでも他者の呼びかけに対して遅れており、その遅れに対して不断の責めを負うことが主体性だというのだ。他者への負いは自分の意志で選択できることではなく、受動的な事柄である。Austerの小説では、他者の死にたいして、それが偶然なのか自分の責任なのか判別しがたい時にでも、責めを負う主人公が数多く現れる。Marcoの祖父と父の老い、怪我、死における身体の変容の強調は、3世代の男性によって繰り返されてきた、未来や過去を自己の現在の内に回収するという資本主義的「同の時間」の批判として機能しているように思われる。本発表では、Moon Palaceにおける、飢え、睡眠、性愛、父子関係、老いなどの身体の観点から、倫理的主体と時間との関係について論じたい。