井出 達郎 北海道大学(院)
スティーヴ・エリクソンの『リープ・イヤー』(1989)と『Xのアーチ』(1993)は、語られない歴史と語られる歴史からアメリカを物語ろうとする試みを前提としながら、そのような物語を語る主体の存在を前景化する。歴史を語ろうと試みながらもすでに歴史によって語られてしまっている存在、決して歴史を外側から語ることができない宙吊りの存在が、そこには浮かびあがってくる。本発表では、両作品に共通するこの宙吊りの語り手と、それに対して提示される記憶という概念を考察することで、テクストの提示する歴史における真の主体の問題を読み解いていく。
まず『リープ・イヤー』の構造を検討することで、語り手の宙吊りとなった主体性を明らかにする。1988年の大統領選挙をルポルタージュに書いたこの作品は、そのノン・フィクションという構造にもかかわらず、語り手であるエリクソンの主体性が、もう一人の語り手であるサリーと同列に置かれている。そのためテクストの中の語り手エリクソンは、フィクションにおける一人の登場人物でしかない。ノン・フィクションを語ろうとしながらフィクションしか語れないという宙吊りの状態に気がついていきながら、アメリカを語るエリクソンは、アメリカの物語を語る自らの主体の問題へ到達する。
この到達点は、次の作品である『Xのアーチ』に引き継がれ、歴史を語る主体の問題としてさらに展開される。第三代大統領トマス・ジェファソンとその愛人のサリーを中心とし、語られなかった歴史の物語であるかのように始まるこのテクストは、「私」という主体的表現を表す代名詞を通して、「トマス・ジェファソンの物語を語る『私』」の物語となっていく。その物語は、「私」という存在が、すでに歴史に語られてしまっているゆえに、語られない歴史を語ろうとする主体性を奪われてしまっているということを明らかにしていく。語られる歴史から離れようとしながら、しかし語ろうとする歴史には届かないという、宙吊りにされた主体をそこにみることができる。
これらの宙吊りの主体に対してテクストは、記憶という概念を提示することによって、語られる歴史/語られない歴史という対立関係そのものを乗り越えようとする。『リープ・イヤー』から始まり『Xのアーチ』へと辿りついた「私」という主体の物語は、宙吊りという状態そのものに新しい意味を与え、新しい主体のヴィジョンを表明する。歴史への到達不可能性を受け入れながらも解釈しつづけること、同時に解釈することによって自らもまた解釈しなおされ続ける客体になること、歴史に対するこのようなあり方を記憶と名づけながら、テクストは「私」という主体の新しい物語を語っていく。