西田 智子 九州産業大学
Henry JamesのThe Aspern Papers (1888)の中で、批評家であり編集者である語り手は、今は亡きアメリカの詩人Jeffrey Aspernの手紙を入手するために、Aspernのかつての恋人Miss Bordereauのヴェニスにある屋敷に下宿する。手紙を手に入れるためにはMiss Bordereauの姪であるMiss Tinaを誘惑してもよいと言い、法外な家賃も投資であると考える語り手は、他者の恋愛模様や人生を詮索し批評することに対しては貪欲なまでに情熱的で逞しい。ところがMiss Bordereauの死後、残された手紙を手に入れるための条件がMiss Tinaとの結婚であることを示され、自分自身が現実の恋愛の対象になると、語り手は突如として恐れをなし、身を引いてしまう。
このような人物達の変貌の様子について、先行研究においては目的の達成を阻まれて逞しさや生彩を失っていく語り手に対し、Miss Tinaが自我に目覚め積極的に生きる女性へと成長している点が指摘されることが多い。だが彼女の成長ぶりを引き立てる語り手の変化に注目してみると、偽名を使ってまで自分の正体や本心を隠し、自分の目論見を「見られる」ことなく他者を「見よう」としていた語り手は、実際には、なかなか姿を見せないMiss BordereauやMiss Tinaに「見張られ」、経済的にも精神的にも彼女達に利用される不利な立場になっていることが分かる。そして、他者の人生を観察し、解釈することで批評家としての社会的アイデンティティーを得ている語り手にとって、物事を「見る」ことが出来ない立場に置かれることは彼のアイデンティティーの危機を意味していると考えられる。そこで本発表では、語り手が女性達から「見られる」ことで、自分自身が「見る」力やアイデンティティーを失っていく点に着眼したい。
目の上に覆いをかけているMiss Bordereauの目を語り手は見ることが出来ず、彼は専ら「見られる」立場になる。彼がAspernの手紙を盗み出そうとした時には、初めて目の覆いを外したMiss Bordereauに睨み付けられるが、彼は恐怖のあまり冷静に相手を「見る」余裕など無い。さらに彼は自らの男性性を利用してMiss Tinaを誘惑するどころか、逆に女性であるMiss TinaからAspernの手紙を質に結婚を迫られることになり、ひるんで目的を断念することになる。
最終的に、語り手にとって、金銭的な投資の意味も、女性を誘惑する男性としてのジェンダー・アイデンティティーも、他者を「見る」批評家としての社会的なアイデンティティーも失われていく。他者の生を「見る」ことで自分の生のアイデンティティーを得ていた語り手にとって、他者から「見られる」ことは自らが「見る」力と自分の生を奪われることを意味していると考えられる。本発表では、語り手のアイデンティティーの喪失の様子を明らかにしつつ、人生の傍観者が持つ弱さに対するJamesの意識について考察していきたい。