1. 全国大会
  2. 第44回 全国大会
  3. <第1日> 10月15日(土)
  4. 第10室(7号館4階 D42教室)
  5. 1.我らのインディアンコーン——トウモロコシはどのようにして<アメリカ人>のものになったか

1.我らのインディアンコーン——トウモロコシはどのようにして<アメリカ人>のものになったか

佐藤 憲一 筑波大学(院)


印紙条例が発布されて間もない1766年1月、“Homespun”という奇妙な筆名を名乗ったBenjamin Franklinは、ロンドン発行の日刊紙上で、“Vindex Patriae”という筆名の人物と、ある論争を繰り広げた。

Patriaeは、アメリカの特産であるトウモロコシは紅茶なしでは消化に悪く、かといって、トウモロコシにはろくな料理法が考案されていない以上、アメリカ人は結局のところ本国から持ち込まれる紅茶なしではやってゆけない、という。対してHomespunを名乗るFranklinは、アメリカにはすでにトウモロコシの多様な料理法があることを誇り、アメリカのトウモロコシ料理はヨークシャーのマフィンよりも美味い、と反論する。

ここで両者は、トウモロコシが北米植民地の特産品であるという共通の前提に立っている。では、そもそも Indian Corn と呼ばれるトウモロコシは、どのようにして北米植民地の特産品になったのだろうか。

OEDは、“Indian Corn”という語の最も早い用例のひとつとして、John Winthropの Journal からの一節を挙げている。また、William Bradfordの Of Plymouth Plantation のなかでは、ピューリタンがインディアンからトウモロコシの耕作法を教わったとされている。従来、新大陸の動植物に対して博物学的興味を持たなかったとされるピューリタンだが、ことトウモロコシに関しては、事情は異なったようである。ニューイングランドのやせた土壌をものともせずに発育したトウモロコシは、彼らの知的好奇心を刺激したのだ。

こうした背景を踏まえれば、1678年にロンドン王立協会の機関紙 Philosophical Transactions に掲載されたJohn Winthrop Jr.による記事“The Description, Culture, and Use of Maize.”は、ピューリタンがトウモロコシに寄せた興味のひとつの到達点であると同時に、ヨーロッパの知の枠組みがアメリカ大陸原産のトウモロコシをその内側に取り込んだ証左でもある、といえよう。しかし、18世紀を通じてゆるやかに形成された北米植民地独自の知の枠組みは、植民地が本国に反旗を翻すのを契機にトウモロコシの専有権を主張し始める。トウモロコシをめぐるPatriaeとHomespunの論争は、実はトウモロコシをめぐるふたつの知の枠組みの間の争いでもあるのだ。

発表ではまず、トウモロコシがトランスアトランティックな知の枠組みを往還し、最終的に北米の特産品としての地位を獲得するまでのプロセスを、匿名のパンフレットや雑誌記事も視野に入れつつ明らかにする。そして最終的には、19世紀における<アメリカ文学>の成立に寄与することになる北米植民地特有の知の枠組みが、ヨーロッパ的な知の枠組みから離陸してゆく様子を、きわめて日常的な食物の表象から捉えなおしてみたい。