開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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大井 浩二 |
1.我らのインディアンコーン——トウモロコシはどのようにして<アメリカ人>のものになったか 佐藤 憲一 : 筑波大学(院) |
2.旅する歴史家——Francis Parkman, The Oregon Trail からThe Conspiracy of Pontiac へ 山口 善成 : 高知女子大学 |
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西谷 拓哉 |
岩田 和男 : 愛知学院大学 |
4.セッションなし |
佐藤 憲一 筑波大学(院)
印紙条例が発布されて間もない1766年1月、“Homespun”という奇妙な筆名を名乗ったBenjamin Franklinは、ロンドン発行の日刊紙上で、“Vindex Patriae”という筆名の人物と、ある論争を繰り広げた。
Patriaeは、アメリカの特産であるトウモロコシは紅茶なしでは消化に悪く、かといって、トウモロコシにはろくな料理法が考案されていない以上、アメリカ人は結局のところ本国から持ち込まれる紅茶なしではやってゆけない、という。対してHomespunを名乗るFranklinは、アメリカにはすでにトウモロコシの多様な料理法があることを誇り、アメリカのトウモロコシ料理はヨークシャーのマフィンよりも美味い、と反論する。
ここで両者は、トウモロコシが北米植民地の特産品であるという共通の前提に立っている。では、そもそも Indian Corn と呼ばれるトウモロコシは、どのようにして北米植民地の特産品になったのだろうか。
OEDは、“Indian Corn”という語の最も早い用例のひとつとして、John Winthropの Journal からの一節を挙げている。また、William Bradfordの Of Plymouth Plantation のなかでは、ピューリタンがインディアンからトウモロコシの耕作法を教わったとされている。従来、新大陸の動植物に対して博物学的興味を持たなかったとされるピューリタンだが、ことトウモロコシに関しては、事情は異なったようである。ニューイングランドのやせた土壌をものともせずに発育したトウモロコシは、彼らの知的好奇心を刺激したのだ。
こうした背景を踏まえれば、1678年にロンドン王立協会の機関紙 Philosophical Transactions に掲載されたJohn Winthrop Jr.による記事“The Description, Culture, and Use of Maize.”は、ピューリタンがトウモロコシに寄せた興味のひとつの到達点であると同時に、ヨーロッパの知の枠組みがアメリカ大陸原産のトウモロコシをその内側に取り込んだ証左でもある、といえよう。しかし、18世紀を通じてゆるやかに形成された北米植民地独自の知の枠組みは、植民地が本国に反旗を翻すのを契機にトウモロコシの専有権を主張し始める。トウモロコシをめぐるPatriaeとHomespunの論争は、実はトウモロコシをめぐるふたつの知の枠組みの間の争いでもあるのだ。
発表ではまず、トウモロコシがトランスアトランティックな知の枠組みを往還し、最終的に北米の特産品としての地位を獲得するまでのプロセスを、匿名のパンフレットや雑誌記事も視野に入れつつ明らかにする。そして最終的には、19世紀における<アメリカ文学>の成立に寄与することになる北米植民地特有の知の枠組みが、ヨーロッパ的な知の枠組みから離陸してゆく様子を、きわめて日常的な食物の表象から捉えなおしてみたい。
山口 善成 高知女子大学
本研究は19世紀アメリカの歴史家Francis Parkman (1823-1893)の著作を入り口として、当時の社会において「歴史」とはいかなる種類の書き物であったのかを問うものである。主として取りあげるテクストはParkmanの最初の二つの著作 The Oregon Trail (1849)とThe Conspiracy of Pontiac (1851)である。そして具体的な方法としては、Parkmanの歴史記述を読み解く鍵として「旅」および「旅行記」といった要素に着目し、これらが彼の著作の成り立ちにいかに関わっていたかを議論の軸にして分析、論証する。
Parkmanの歴史は「旅」によって書かれたと言って過言ではない。ハーヴァード大学に入学後間もなくして歴史家になることを決意した彼は、毎年夏になるとその後自らの手で取り組むことになる「植民地時代におけるニューイングランドとニューフランスの闘争史」のためのリサーチ・トリップを繰り返している。例えば、舞台となるアメリカ東部と北西部、およびカナダへと実際に足を運んで史料を集め、さらに彼は自分の歴史において大きな部分を占めるアメリカ先住民インディアンについてより詳細な知識を得るためオレゴン・トレイルの旅にまで出かけた。これらの旅によって得られたデータは確実にその後の彼の歴史記述に組み込まれてゆく。したがって第一義的には、Parkmanの旅は資料収集のための旅だったと言って差し支えない。
この資料収集の徹底ぶりはParkmanの師であるハーヴァード大学初代歴史学部教授Jared Sparksの影響が大きかったと考えられる。Sparksは自らの歴史編纂プロジェクトのために全米およびヨーロッパ各地を渡り歩いて資料の収集に努めたアメリカで最初の歴史家だった。ひたむきに歴史資料を求めて方々へ足を運ぶ師の姿はParkmanにとって「歴史家」の手本として強い印象を与えていたことであろう。しかし、Parkmanの旅はSparksのそれとは性質の違うものに発展していった。つまりParkmanにとって旅は単に歴史資料を集めるための手段にとどまらず、実際に歴史を書く際の方法論をも提供していたのである。非常に早い段階から「歴史」を意識していたのにもかかわらず、彼が最初に出版したのは The Oregon Trail という旅行記だった。本研究ではこの旅行記を単に旅で集めた史料をまとめただけのものではなく、むしろParkmanは旅や旅行記の執筆を通して歴史記述の方法論を確立していったという仮説を立てる。そしてこの仮説を証明しながら、あわせて19世紀アメリカにおいて大量に出版された「旅行記」というジャンルが歴史記述に及ぼした影響力を検証し、Parkmanの歴史を単なる特異な個別例としてではなく19世紀アメリカという社会だからこそ登場し得た歴史記述のあり方として論ずることが本研究の最終的な目標である。
岩田和男 愛知学院大学
視線を問題にするのはヒッチコック(Alfred Hitchcock)論のいわば定番である。しかし、本発表は、「見る/見られる主体の精神分析」とはほとんど無関係である。なぜなら、もっと即物的な意味で、ヒッチコックとは、初期の作品から一貫して、ある人物(A)が何か(B)を見ていることを示す視点ショット(A→B→A)に魅せられた監督だったからである。本発表の力点はそこにある。
たとえば、イギリス時代の作品である『三十九夜』(The Thirty-Nine Steps 1935)で、主要登場人物であるハネイとパメラの二人を交互に映す視点ショット(A→B→A)、そして、さらに二人が見つめあうショットへと展開するシークエンス(A→B→A→C)は、事件の解決もさることながら、映画のカタルシスそのものを見るものにもたらす。ハネイとパメラの信頼関係が、視点ショットの積み重ねで構成されたシークエンスを通じて、観客に共有されるからである。それは往年のハリウッド映画がもっていた特徴にとてもよく似ていて、まるでイギリスで撮られたアメリカ映画のようである。
だからこそ、ヒッチコックはアメリカに大きな期待を抱いて渡米したのだが、それは「非現実的な期待(unrealistic expectations)」だった。検閲制度に端を発する現場とプロデューサーの交渉あるいは干渉の実態を、彼は正しく把握していなかったからである。そのことからくるやるかたない憤懣は、たとえば『逃走迷路』(Saboteur 1942)における「真のアメリカ」をめぐるエピソードに反映している。しかし、この映画の面白さはそれにとどまらない。ヒッチコックの視線、すなわち、視点ショットに関わる重要な深化が、この映画の奥深くにもっとラディカルなものを内包させているからである。
そのラディカルさとは、「それが利害の対立する関係をも超越して示してしまう同一性発見の契機を、共感と呼んでいいのか?」という見る者の恐れである。たとえば『サイコ』(Psycho 1960)において、ノーマンが母に対する複雑な思いを披瀝する場面での視点ショットの使い方は、私たちを激しく動揺させる。ノーマンの母思いに感じ入ったマリオンは、罪を悔い改め家に帰る決心をする。二人の共感(らしきもの)は見る私たちと共有され、作品中唯一の意義深い語りの場面としてこの夕食の場面が閉じたその直後、実はノーマンは、マリオンや私たちの共感とは全然違う世界に住んでいることがわかるのである。
この、窃視から殺人に至ってしまうノーマンの異常にまでも、共感の技法、すなわち視点ショットを持ち込もうとするヒッチコックのラディカルさは、おそろしい。ただし、それを即物的に解きたい本発表は、この作品がテレビに触発されて撮られた映画であることに注目する。その意味で、ユビキタス・メディアであるテレビと同列のコミュニケーション上の新機軸と言うべきハイウェイの話を、ノーマンがしていることは注目に値する。そこには、ポストモダンの地平、すなわち映画の限界が見据えられているかもしれないからである。