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司会 | 内容 |
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黒田絵美子 |
1.Tennessee WilliamsのStairs to the Roof (1940)を読む——両性具有と「2番目の世界」 山野 敬士 : 別府大学 |
2. 岡本 太助 : 大阪外国語大学(院) |
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古木 圭子 |
松田智穂子 : 一橋大学(院) |
4.The Completion of August Wilson's Cycle: Disposition and the Dispossessed John T. Dorsey : 立教大学 |
山野 敬士 別府大学
長い間その存在を知られながら日の目を見ることがなかったNot About Nightingales (1938)が1998年に上演されたのに端を発し、世紀転換期の数年間は Spring Storm (1937)や Stairs to the Roof (1940)といった、Williamsが The Glass Menagerie (1945)以前に書いた作品の出版や上演を目にすることとなった。そして、優れた劇作家の修行時代にあてられた光は、Williams作品を時代的に拡大した幅の中で議論することを可能としたのである。
そのような「古くて新しい」Williams作品に共通することは、40、50年代の円熟期に花開いた主題や表現方法の種子がそこに点在することと、30年代という時代背景が若き劇作家に左翼主義的思想を大胆に語らせていることにある。しかしながら、習作時代の最終作であり、初めてBroadwayを意識して書かれた Stairs to the Roof の持つ雰囲気は他の作品とは異質なものと言えるだろう。原因は、「幸せな結末を持つ男女の恋愛物語」の要素が「物質主義的社会に反抗する個人像」という主題を飲み込んでしまっていることや、劇の後半部で非現実的な場面や要素が増えていくことにある。特に興味深いのは後者で、それまで舞台袖で場面が終了する毎に笑い声や溜息で劇に反応していた男が、全能の力を持つ神のような存在、Mr. Eとして舞台上に現れ、主人公Benを別の星に雌雄同体の生物として移住させ、「2番目の世界(“World Number Two”)を作る」という考えを述べる結末部において、劇の非現実性はSF的とも神話的とも言えるような様態を帯びるのである。
“Androgynous is the truest human being”と語ったこともあるWilliamsの「両性具有」に対するromanticな憧れは、後期の劇 Clothes for a Summer Hotel (1980)や、詩 Androgyne , Mon Amour (1977)の中に描かれてきたが、極めて初期の作品で具体的にこの主題が持ち出されていることは興味深い。本発表では、他作品との比較も行いながら、「両性具有」の主題が唐突に持ち出されることが、Stairs to the Roof の読解にどのような影響を与えるのかを考えてみたい。具体的には、「両性具有」の概念が「性」や「逃走」というすべてのWilliams劇に共通する主題とどのように関わっているかについて、それらの主題の背後にある「理想郷願望」や、「逃走を通してのみ認識可能な社会の境界線」に注目することで、考察してみたい。また、基本的にリアリズム的である円熟期のWilliams演劇の中で唯一非現実性が強調された劇である Camino Real (1953)や、滅亡する地球から同性愛者の主人公が宇宙船に乗って逃げるという結末を持った小説 “The Knightly Quest”( 1965 )と Stairs to the Roof を結ぶことが可能な線を探ることで、伝統的なWilliams像と異なるものを提示することができればとも願っている。
岡本 太助 大阪外国語大学(院)
Topdog/Underdog によって2002年度のピューリッツァー賞を受賞したSuzan-Lori Parksは、名実ともに現代アメリカ演劇を代表する作家である。きわめて象徴性の高い舞台表現や、ジャズの即興演奏を思わせるようなRep & Rev(反復と修正)によって構成されるセリフ、高尚・低俗織り交ぜた多様なテクストの引用からなる注釈の導入、そしてリンカーンからへスター・プリンにいたる人物にまつわる表象の解体と再構築による歴史の再テクスト化。このようにParksの劇作の特色を列挙してみると、明示的で最終的な「意味」(つまり記号表現としての作品が指し示すところのシニフィエ)を欠いているかのようにみえる彼女の作品が、実は演劇・文学表現の伝統、さらには表象一般の形式の歴史的な変遷そのものを対象として志向していることがわかる。つまり黒人女性作家であるParksが、例えばアフリカン・アメリカンの経験語っているかどうかは明確に決定できないが、彼女が何らかのものを表現するため用いる「形式」(例えばSignifyin(g))を歴史的に定位することは可能であり、いわばという「形式」のレベルにおいてこそ、Parks作品の「意味」が生産されているのである。
しかし一方では、Parksにおいて具体的な経験が語られていないと断言することも誤りであって、彼女もまたマイノリティー文学やポストコロニアル文学の主調音である「声なき主体に語らせる」というテーマを追求している。もっともParksは、黒人主体の経験そのものを内容として描出するというよりも、注釈やパロディー、さらには自分とは異なる誰かに偽装して語るという手法などを通して、複数の声がせめぎ合う言説・表象空間を創出することによってそれを達成するのである。(従ってこれは、戯曲を本質的に単声的なものとみなすバフチン流のポリフォニー論への反証ともなっている。)
さらにParksにおける表現形式の中心をなすRep & Revは、単に特定のセリフの反復・修正にとどまらず、作品における表現全般に影響を及ぼす、いわば高次のメタファーとして機能している。Rep & Revの骨子は、既に決定したものとみなされる歴史上の事実を、常に(舞台上の)現在という瞬間において生々しく経験し、書き換えてゆくという点にある。したがって一方向的・直線的な時間概念が異化されることは言うまでもないが、さらに重要なのは、Rep & Revの対象となる(アメリカの)時空そのものが、くまなく表象し尽くされ、「モノ」と化しているという感覚である。つまり「歴史」そのものにではなく、その雑多な表象を対象にして書き換えを行うような無限の運動によって示される、きわめてポストモダン的な傾向がParksを特徴付けているといえる。本発表ではリンカーン暗殺を土台にした作品 The America Play(1990)を中心に、これらの論点を例証する。
松田 智穂子 一橋大学(院)
中国系アメリカ人劇作家David Henry Hwangによる三幕劇 M. Butterfly (1988)は、性差、人種、文化をめぐって生じる西洋と東洋、および男性と女性の対立が錯綜する主題を、Pucciniのオペラ Madame Butterfly (1904)のモチーフにのせて描き出す作品として、初演時より注目を浴び続けている。そのテキストは、1980年代後半から90年代にかけて、多文化主義の視点から盛んに読み解かれてきたが、本発表では、ホァンがこうした主題を実際に舞台で表現するために用いた演劇的手法を明らかにしたい。
Tennessee Williamsの The Glass Menagerie (1945)における主人公Tomは、批評家Peter Szondiが定義付けた、回想によって「過去を現在化する」登場人物であるといえる。『M.バタフライ』の元フランス人外交官Gallimardも、「理想の観客(ideal audience)」を聞き手としてみずから設定して自身の経験を回想し、語る。この語り手は、自分と同じ時間(現在)に存在する聞き手(観客)に向かって語りかけることによって、過去の出来事を観客の前に現出させる。
ところが、第二幕になると、ガリマールが語る物語の登場人物のひとりに過ぎなかった彼の愛人Song Lilingが「回想する語り手」の役割を担い始める。さらに、ガリマールのスパイ容疑を裁く法廷の場(第三幕第一場)では、ガリマールは語り手の役を放棄して退場し、代わりにソンがガリマールとの生活を暴露し、西洋男性が抱く「幻想」を糾弾する。このような劇の語り手の交替は、支配関係の逆転を舞台上に可視化する試みだと言えないだろうか。自身とソンの関係をピンカートンと蝶々夫人の関係になぞらえて回想し、みずから語ることによって舞台上に再現しようとするガリマールの試みが、新たな回想し語る人物の出現によってついえる様相は、東洋女性の理想像が崩壊し、ガリマールが体現していた西洋男性の価値体系が崩壊する過程を表すのである。最終場面では、ソンが退場し、ガリマールが再び語り始める。しかしその主体はもはや西洋男性のそれではなく東洋女性という語られる客体と化しており、ガリマールの口から発せられる言葉は蝶々夫人の台詞である。
ホァンが用いた回想する語り手、およびその複数化という演劇的手法は、プッチーニのオペラ、さらにはヴェトナム戦争版『マダム・バタフライ』ともいえるブロードウェイ・ミュージカル Miss Saigon (1989)でも曖昧とされていた主題を浮かび上がらせる。
John T. Dorsey 立教大学
At the age of sixty, August Wilson has brought his ten-play cycle on the experiences of African Americans in the twentieth century to a close with what he has proposed as “bookends”: Gem of the Ocean (2004) and Radio Golf (2005). The former play is set in Pittsburgh, as are all of the plays but one, in 1904, while the latter takes place in 1997, thereby completing the scheme of one play set in each decade of the twentieth century. These “bookends,” placed at the beginning and end of the cycle, frame a discourse of “what is to be done” in regard to what has been called the major problem facing twentieth century America, the color line. And they both focus on the mysterious figures of Aunt Ester and her house at 1839 Wylie Street, which represent some three hundred and fifty years of Africans in America.
In this presentation, I would like to examine the question of closure in the cycle, in both a thematic and structural sense. As is well known, one of the problems with “problem plays” is the question of final disposition of the matter?that is, if authors raise a question, they are expected to answer it. In this cycle of plays, the matter of “disposition” has both positive and negative meanings, for “dispose” means both to get rid of and to control. In his plays and other writings, Wilson has claimed that African Americans are the “leftovers” of American history?used as slaves in building the country and then marginalized and disposed of as useless in modern times. He further claims that they have been dispossessed of their African heritage and culture and then, once again, of the culture they formed in the South over a period of some three hundred years. In this sense, “disposition” implies displacement as well. The solution or final disposition for Wilson is an open-ended one: African Americans must gain control over their own lives and culture, preserving their cultural heritage as Africans but also as Americans. Wilson has made an exemplary contribution to this project in this twenty-five year opus.