開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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1.セッションなし |
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大森 義彦 |
斉藤 修三 : 青山学院女子短期大学 |
木原 善彦 |
3.「モラリスト」T. S. Eliotの劇場デビュー——野外劇 The Rock から見えてくるもの 佐伯 惠子 : 県立広島大学 |
阿部 公彦 : 東京大学 |
斉藤 修三 青山学院女子短期大学
かつてミハイル・バフチンは、詩的言語があるイデオロギーによって統一されたな求心力へ向かうのに対し、小説の場合はな言語使用により、逆に脱中心化へ向かう遠心力を帯びると説いた。たしかにロマン派詩人たちの抒情詩を想起すると、その単声性はたとえば国民国家の言説へと容易に結びついていった。
だがモダニストの詩人になると、事情はことなってくる。The Waste Land に至るまでのT. S. EliotやE. PoundのThe Cantos が、多言語使用の生み出すポリフォニックな世界であったのは言うまでもないし、かりに単声的言表であっても、内的対話性に支えられたパロディやアイロニーに満ちていた。
そしてさらに、米国少数派の詩人になると、近年のポストコロニアルな言語意識と呼応しながら、英語という主流言語のなかで自らを「異邦人として」(ドゥルーズ)意識する度合いが高まるのに比例して、内容のみならず言葉遣いそれ自体に対話性や多声性がますます見られるようになる。なかでもチカーノをはじめとするラティーノ詩の場合、英語とスペイン語という二大帝国の遺産を受け継ぐだけに、「何を語るか」と同じくらいに、「何語で語るか」が大きなテーマとなる。そこで今日の発表ではチカーノ・ラティーノ詩に見られるな言葉のふるまいを作品に即して具体的に検証しながら、アメリカ詩の新しい潮流を考察したい。
佐伯 惠子 県立広島大学
The Rock (1934) はもともと教会建設の資金募集のために企画された野外劇だった。シナリオはすでに出来上がっており、T.S. Eliotが自由に書けたのは10篇のコーラスと第一部終幕の一場面にすぎなかった。後にEliotはコーラスのみを詩として自らの詩選集に加え、“Book of Words by T.S. Eliot”と題して出版されたThe Rock の序文の中で「自分はこの劇の作者とは言えない」と記している。Eliotが手がけたコーラス部分は上演直後比較的高い評価を受けたものの、その後、この劇が上演されることはなく、絶版になったテキストが読まれることも、彼の詩や詩劇との関連で論じられることもほとんどない。しかし、それにもかかわらず、この作品には当時のEliotの世界を色濃く反映した内容を含んでいるのである。
The Rock では、ソロモンの時代から現代に到るまで、ロンドンを中心とした教会建築をめぐる歴史を描いた過去の場面と、失業者の嘆きの声を背後に聞きながら、煽動者たちに邪魔されながら教会を建て続ける現代の労働者たちの場面が交互に描かれ、教会の土台を象徴する「岩」が要の教えを説き、コーラスが「神の教会の声として語る」。想定された観客も目的も主題も極めて宗教的ではあるが、そこに登場する人物は「労働者」、「共産主義者」、「ファシスト」、「金権政治家」などであり、描かれるのは現代ロンドンの「共同体」の情景である。そして、これらは同じ頃Eliotが行なった評論・講演に共通する重要なキーワードでもあるのだ。
Ash-Wednesday (1930) 執筆後、一時詩作が行き詰まりを見せ、詩劇の執筆はまだ時が熟さず、といったこの時期、Eliotが最も活発な執筆活動を行なった場が批評・評論だった。Eliot自身が創刊し、主筆となった文芸雑誌The Criterionや17年ぶりに帰郷したアメリカでの講演After Strange Gods, The Use of Poetry and the Use of Criticism などで盛んに発言するEliotは自らを「モラリスト」と定義し、その目線ははっきりと当時の実社会を捉えている。「共産主義」が宗教の代替物となり、「共同体」を奪ってしまっていると、Eliotはイギリスでもアメリカでも繰り返し警告し続ける。このようにしきりと社会に働きかけようとする姿勢が、図らずもこの時期に依頼された野外劇 The Rock の中で発揮されるのである。これを契機としてEliotは社会とのもうひとつの接点を劇場に見出してゆく。
本発表では、当時の社会に対して強い危機意識を持ち、現代人に懸命に働きかけようとする「モラリスト」としてのEliotの側面を、The Rock とその前後に書かれた評論の中に探ってみる。「共同体」をめぐるEliotの意識がThe Rock を挟んで微妙に変化していることに注目し、「個人」と「共同体」と「キリスト教」と「劇場」とがEliotの中で有機的につながり始める契機となるThe Rock の意義を考察する。
阿部 公彦 東京大学
頼まれたわけでもないのに発言する人ほど、迷惑なものはない。教授会で不必要な意見を滔々と述べる人、同報メールでやたらと長い挨拶文を流す人、結婚式で興奮のあまりいきなりスピーチを始める人・・・。逆に、頼まれたから発言する、の典型といえばアンケートである。アンケート的発言は、あらかじめ与えられた空欄に向けた反応であり、新聞に引用される有識者のコメントなどにもあらわれているように、言葉は相手の都合にあわせた「お行儀のよさ」を発揮している。最近「英語教育」など文学研究の隣接分野でも世論調査的研究手法が目立ってきたが、本発表の目的はそうした動向を横目で見やりつつ、アンケート的言説の蔓延が文学の現場にどのような問題を引き起こすのか、主に詩作品に焦点をあてて検討することにある。
そもそも文学研究は、長らく「たのまれたわけでもないのに・・・」を思想的な拠り所としてやってきた。文学史上の作家・詩人でも、長い無名時代をすごし自費出版やボツ原稿に埋もれながらやってきた人々は多いが、そうした人物像をこよなく愛する文学研究者にとって、「たのまれたわけでもないのに語る」人の、動機不明の、はた迷惑な発言欲は魅力でもあった。アンケートという枠組みには、そうした神話を解体する作用がある。アンケートにおける発言は非自発的で、「頼まれた」故の仕方ないものであり、その匿名性・無束縛性・多数性は一見民主的だが、行き先が指定されあらかじめ毒抜きされているという意味では隷属的でもある。
では、果たしてアンケート的言説とは、自由で自発的な発言に比べて「政治的に」一段劣ったものとみなせるのだろうか?振り返ってみると、たとえば日本における英語教育(つまり括弧なしの、ということであるが)はしばしばQ&Aのパタンに依存した知識伝達のシステムに依存してきた。ここには「発言をさせる」という民主主義の鋳型を隠れ蓑にした権威主義の温存という側面がたしかにあり、「英語教育」(括弧つきの、である)におけるアンケート主義の氾濫にもその影響はあるかもしれない。が、このQ&Aの問答形式は実は広く英語文学テクスト一般の中にも看取されるようなかなり普遍的な言語の振る舞いの形でもあり、従って、アンケート言説の隷属性を指摘するだけで事足れりとするのは早計だろう。
ジ英語文学の作品、とくに詩では、Q&Aのパタンはしばしば作品の重要な土台として用いられてきた。本発表ではJohn Milton、Emily Dickinson, Wallace Stevensといった詩人の作品をとりあげ、問答形式がいかにして発話のための豊饒な枠組みを提供してきたかを確認しつつ、それが現代におけるアンケート言説の氾濫とどのように関係してくるのかにまで考察を進めることで、文学研究と英語教育とをつなぐような問題提起をできればと考えている。