開始時刻 |
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司会 | 内容 |
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山下 昇 |
1.Toni Morrisonの Tar Baby にみるエコロジカル・フェミニズム 阿部 暁帆 : 成蹊大学(院) |
2.母の物語を語る娘—— Beloved における元奴隷女の使命 安澤 梨花 : 津田塾大学(院) |
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木内 徹 |
3.Toni Morrisonのパリンプセスト—— Song of Solomon の下部テクストとしてのソフォクレスの『エディプス王』と『コロノスのエディプス』 奥野みち子 : 大阪市立大学(院) |
4.The Temple of My Familiar における多民族、多文化的視点 中野 京子 : 久留米大学(非) |
阿部 暁帆 成蹊大学(院)
Toni Morrisonの作品には、アフリカ系アメリカ人が直面する問題に関しての迫真性のある描写と、アフリカに起因すると思われる独特の超自然的な描写とが、常に共存している。Tar Baby(1981)に関していえば、資本主義社会に翻弄されるカリブの島の実情がプロットの背景として描かれている一方、奴隷制に関連した島の伝説的な神話もまた、随所に織り込まれている。しかし、このような現実的な描写と超自然的な要素という、一見対照的とも思われるものを、Morrisonは一体どのように調和させているのだろうか。その手法は様々であるが、Tar Baby の場合、この両者を結びつけている一つの要因は、擬人化された島の自然描写であると推測できる。
Tar Baby を概観すると、資本主義の弊害の影響や後に再生しつつある、擬人化された自然描写が際立っていることに気づくが、この特徴は、現代社会におけるアフリカ系アメリカ人コミュニティの内情と彼らのフォークロアとを複雑に織り込むというMorrison特有の作風とは、少々異なっている。この作品が発表された時代背景には、まず、1975年以降の原発事故を契機とした、女性側からの環境保護運動の隆盛があげられる。こうした運動と関連して、女性と自然とがともに男性支配の対象となっている、という批判を根本的な主張として系統立てられたエコロジカル・フェミニズム(エコフェミニズム)が唱えられ始めたのは、この頃のことである。更に、第三世界の貧困層の女性に資本主義社会の弊害の波が押し寄せていることに対する、当事者側からの運動が高まった、エコフェミニズムの発展段階の時期でもある。Tar Baby ではこれまでの作品とは異なり、アメリカ合衆国からカリブの島へと舞台が移っているが、カリブの島はいわば、貧困層の実態や自然の破壊などが縮図化された場所であり、Morrisonは自然破壊や第三世界の女性たちを意識的に描くことで、より資本主義の弊害を明確にしているのである。Morrison自身はエコフェミニズム思想へ傾倒を明言してはいないが、Tar Baby にふんだんに自然描写を取り込み、資本主義社会を嘲笑的に描いたMorrisonの作品における意図と、当時の社会運動の風潮との近似は、決して偶然ではないだろう。また、エコフェミニズムの主張には、Morrisonの作品に内在する現実的な面と超自然的な思想との二面性があるという点においても、両者の共通性を見いだすことができるのである。
本発表では、まず、作品の舞台であるカリブの島が、エコフェミニズムの視点からみた場合、どのように描かれているかを考察するとともに、エコフェミニズム内での多様な見解が作品に混在していることを明らかにする。次に、資本主義社会で生きるJadineに対して、アフリカ系アメリカ人の伝統的社会を重んずる人物として比較されがちなSonは、エコロジカル・フェミニズムの思想からはどのように解釈されうるか、更には、第三世界の女性であるやにみられるエコフェミニズムの主張と今後の可能性について指摘したい。
安澤 梨花 津田塾大学(院)
Toni Morrisonの小説Beloved (1987)は、逃亡奴隷Setheの子殺しの事件を中心にして、奴隷制の暴虐による傷を致命的に負わされた黒人たちの自己回復のプロセスをテーマにしている一方で、Setheの「生き残った」もう一人の娘、Denverの成長の物語として読むことが可能である。Setheが自由になるのと同時にこの世に生を受けたDenverは奴隷制を体験しておらず、さらに母の子殺しに集約される奴隷制の過去に対峙することを頑なに拒んできたため、歴史の中における自身の位置が見出せずに圧倒的な孤立感に苛まれている。そうしたDenverの姿は、300年以上にもわたって存続してきた奴隷制の忌まわしい歴史から目を背けることで、いわば「国民的記憶喪失」に陥ってしまった現代に生きるアメリカ人の姿に重なり合う。
しかしMorrisonは、この少々頼りなくみえる元奴隷女の娘に、母の物語をはじめとする複数の元奴隷たちの「奴隷体験記」が織り成すBeloved という物語を後世に語り伝えるという使命を与えている。Denverは、殺された姉の化身であるBelovedを通して母の経験した奴隷制と対峙し、それを自身のものとして徐々に受け入れていくことになる。物語の最後で読み書きを習い大学に行くことになるDenverは、母から語り伝えられた歴史を文書によって記録するという使命を担っているが、これは実際の逃亡奴隷たちが自らの体験を、これまで白人の「占有品」であった書き言葉を用いて描いた史実と重なる。しかしそうした19世紀の「奴隷体験記」は主に奴隷制廃止を求めるプロパガンダとして北部の白人中産階級に向けて語られるものであったため、しばしばその語りは白人社会の道徳観念に縛られたものとなった。
Denverは白人にではなく、奴隷制の過去そのものを体現するBeloved に自身や母の物語を語ることによって語り手、ひいては書き手としての主体性を獲得していく。Linda Krumholzが先生、歴史家、著者としてMorrisonの先駆者であるとDenverを位置づけているように、Morrisonは白人のモラルの呪縛から解放されたアフリカンアメリカンの生きた歴史を後世に伝えるという役割をDenverに与えている。白人の少女の助けによってこの世に生み出され、彼女の名をもらったDenverは、自ら体験した奴隷制の記憶を持たず、さらには白人の教育を受ける機会を与えながらも、黒人の共同体の歴史の記録者としての使命を担うという非常に特殊な位置に置かれている。本発表では、元奴隷女の娘であるDenverの語り手としての役割に注目し、Morrisonが彼女を通して創造しようとした「新しい」奴隷体験記の持つ可能性について考察していきたい。
奥野 みち子 大阪市立大学(院)
モリソンの作品の多くは、ジュネットがいうところのパリンプセストをなしているが、The Bluest Eye (1970)とSong of Solomon (1977)の場合、下部テクストはソフォクレスの『エディプス王』と『コロノスのエディプス』である。The Bluest Eye は『エディプス王』との相似は一部で指摘されているものの、テクスト全体を検証した批評はなく、Song of Solomon (以下SoS)の下部テクストについては気づかれてさえいない。モリソンは大学で西洋古典学を副専攻したにも関わらず、彼女の作品と古典との関わりは常に過小評価されてきた。発表は SoS に限定し、モリソンが下部テクストから構成、登場人物、テーマを模倣しながら SoS というアメリカ黒人の神話を作り上げていることを検証する。
『エディプス王』の特徴として、従来批評家が指摘するのは、台詞にある様々な「二重の意味」と、「勘違いのパラダイム」と呼ばれる、連続する「間違いの推理」、及び、劇の後半の「急転」がもたらすエディプスの「身元の発見」という真実の「認知」がある。例えば、台詞の「二重の意味」の一つとして、エディプスの台詞に彼が意図しない「予告」という裏の意味がある。SoSはこれらの特徴をすべて組み合わせて進行する。エディプスの名前自体に二重の意味があり、「腫れ足」と、オイダ「私は知る」+ディプス「二本足(人間)」である。SoS の主人公Milkmanの片足が短いのは内面の欠陥を表しているとされ、milk(幼児性)とman(人間)は彼の人間性の変化を予告する。また、SoSの登場人物は下部テクストの人物の特徴が際立ち、複数の人物が一人に該当する場合もある。例を示すと、Pilateは「臍」がなく、(半熟)卵が好きで、娘Rebaと孫娘Hagarと三人でよく合唱をする。彼女はMaconに蛇と非難されるが、実際に蛇の要素を持つ。Pilateの家族の原型は、『コロノスのエディプス』の「復讐の女神たち」であり、彼女らはアイスキュロスの『慈しみの女神たち』ではコーラス役なのだ。彼女らの髪は蛇で出来ているが、蛇に臍はないし、その好物は卵である。Pilateが身長を自在に変えるのも蛇だからである。彼女が娘を苦しめる男の心臓にナイフを突き立てるのは、残酷な復讐の女神として当然の行為である。Hagarは「大蛇のような愛」をMilkmanに抱くが、「気取りや」で「人のいうことを聞かない」という彼女の性格は「この女には高貴な生まれを喜ばせておけ」とエディプスに非難されるイオカステの性格に似ている。MilkmanとHagarは「近親相姦」の関係があり、『エディプス王』にある「近親相姦」の模倣である。他に、二つの下部テクストにある「スフィンクスの謎」、「アポロン」、「テバイの七将」、“leap”などは、SoSでは重要な意味に利用されている。
中野 京子 久留米大学(非)
Alice Walker (1944- )の前期の作品では、20世紀以降のアメリカ南部を中心とした黒人女性の抑圧と自立に焦点があてられており、The Color Purple(1982) はその集大成となっている。しかし、その7年後に出版されたThe Temple of My Familiar (1989) におけるテーマ、語り、時代や舞台の設定は、以前の作品と比較するとかなり異なった様相をみせている。歴史的には現代を中心に、時代を超越した物語もちりばめられ、地理的には多くの人種が居住し、多文化社会を象徴するアメリカ、サンフランシスコを基軸に、広くヨーロッパ、アフリカ、及び南米までその舞台を広げている。時代と場所が複雑に交錯しながらも一挙に広がってゆくThe Temple of My Familiar は、雑多な人種が紡ぎだす多彩で壮大な物語となっている。
発表では、The Temple of My Familiar に描出される多民族性の特徴を分析すると同時に、多民族、および多文化社会となった現代アメリカが抱く問題を考察する。まず、さまざまなエスニックの背景をもつ登場人物たちをとおして、多文化社会の象徴であるhybridityの描かれ方に焦点をあてる。かれらが、身体的、文化的多様性を受容してゆく際に生じる軋轢や、一枚岩にみられる人種内に存在する差異を明らかにする。同時に、多民族主義がもたらす、文化的、社会的豊かさへの視点を見出す。具体的には、西欧的側面とNative Americanの特徴を併せもつElvis Presleyがアメリカの芸能界で大成功を収める点をはじめ、Presleyが映し出すhybridityの諸相をコロニアルな見地からも検証する。また、アフリカの黒人とアメリカの黒人との間に横たわる文化的アイデンティティの差異を、奴隷制という歴史の過去と現在に残る痕跡を見つめなおし、また独立後のアフリカの政府の支配構造を批判的に分析することで明らかにする。
また、The Temple of My Familiar における “art” のもつ役割を多文化社会のもうひとつの象徴として捉え、西欧中心のartへの批判、周縁化されてきた民族のエンパワーメントといった側面から読み解くとともに、これらの役割がWalkerの描く多文化社会にどういった積極的意味をもつのかを検証する。さらに、新しく提示される “art” の解釈を試みる。これまでのWalkerの作品においても “art” は重要な役割を占めてきたが、この3番目の解釈がこの作品において初めて可能になる理由を、黒人女性の地位の向上を中心とした歴史的背景のなかで考えたい。さらに、多民族社会におけるhybridな社会や “art” の意味をとおして、この作品におけるWalkerの立脚点を、多文化、多民族的社会に対する彼女の視野とともに明らかにする。