大阪市立大学(非常勤) 出口 菜摘
The Idea of a Christian Society(1939)や Notes Towards the Definition of Culture (1948)を読む限り、エリオットを反知性主義と呼ぶことは難しい。彼は民主主義や普通教育への嫌悪を露わにし、大衆を指導する知的エリートの必要性を説くほどの知的な文学者だったからである。エリオットはコールリッジがいう「知識層(the clerisy)」を引き合いに出しながら、「優れた知性と精神を持つ聖職者と俗人(both clergy and laity of superior intellectual and / or spiritual gifts)、そして知識人(intellectuals)」が含まれる集団を理想として語っている。ときに時代錯誤ともきこえるエリオットの議論は、リチャード・ホフスタッターの Anti-Intellectualism in American Life で語られる内容と対極にあるといえる。
初期の評論にも、知性を重視するエリオットの姿がある。例えば代表的な“The Metaphysical Poets”(1921)において、エリオットは「感受性の分裂」以前の詩人を、「知性的詩人(the intellectual poet)」と呼び、以後の詩人と決定的な距離を置く。同論を書いていた頃の手紙(16 September 1921)でも、形而上詩人のなかに「知性的素質(the intellectual quality)」を見い出す。しかし、このエリオットの「知性」への関心は、後年のものとは異なり、自身の当時の不安を映し出しているようだ。同じ手紙で、エリオットは自分の無知や浅薄さを嘆きながら、知らないことをあたかも知っているかのように匂わすことがあると書いている。初期の評論に見られる知性への関心は、所有しないものに対する羨望ではなかったか。ホフスタッターは、知性に反する要素として「感情」を挙げているが、エリオットが語る「非個性論」もこの文脈から読み直すことが可能であろう。であるならば、エリオットの渡英は反知性から知性への移行といいかえることができる。
この発表では、知識人としてのエリオット像が確立した結果、見落とされている側面について考えたい。具体的には1920年、神秘主義者P. D. ウスペンスキーが中心となった交霊会にエリオットが出席していたこと、詩作を語る際に用いた「自動書記(automatic writing)」、The Waste Land(1922)のタロットカードなどを踏まえ、反知性主義者エリオットの顔を明らかにしたい。