東京外国語大学(名誉教授) 志村 正雄
米国に住んでいて、リアル・タイムで Anti-intellectualism in American Life (1963)を読んだ者として、ホフスタッターが第1,2章で示した点描的なanti-intellectualismの例、またこのような本を公にすることができる世の中になった喜びの正直な表明など、感銘深く受け取ることができた。大学町とはいえ、中西部の田舎町、New York Times を購読すれば「アカ」かと怪しまれるコミュニティに住んでいると、よけい感銘深かったものかとも今は思う。
Intellectual嫌いの伝統と対になるintelligence好みの論も納得できることで、日本でも被占領時代、米国の提案によるのだろうが、当時(旧制)中学生の私達は大学・高校を志望するなら必ずIQテストを受けることになった。2,3年で廃止されたが、日本はintelligenceを米国ほど重んじなかったのか。『アメリカの反知性主義』や『米国政治のパラノイド・スタイル』(1965)を読んだころ、なぜ米国がフランスのビネー式テストを流行させたかと言えば、兵役志願者にこれを課することにより、体よく黒人を排除することに役立つからで、仮にIQが高くとも、識字率が低いため,異常に黒人兵が増えるのを防ぐことができるのだ、IQは生まれつきのもの、このテストは練習効果は挙がらないなどというのは嘘であると The New Yorker にさるIntellectualが発表していたのも当時の風を感じさせた。
ホフスタッターの問題点はビート文学を反知性の産物と考え、ほぼNorman Podhoretz (“The Know-nothing Bohemians”)と同趣旨の主張を最終章で述べることである。第1章でEmerson, Whitman, William James,あるいはBlake, D.H.Lawrenceなどの名を挙げ、彼らはanti-intellectualではないと言っているにも関わらずである。彼らには多かれ少なかれ神秘主義的要素があるが、そこらをどう考えるかが私のテーマになるかと思う。