“Tarr and Fether” あるいはTar and Feather——ポーを多文化戦略で読む——
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本ワークショップは、Edgar Allan Poeの後期短篇で擬似科学もののバーレスク、“The System of Doctor Tarr and Professor Fether” (Graham’s Magazine, 1845)に、南部・奴隷制の表象、狂気をめぐる社会文化構造、セクシュアリティ、内外の同時代作家との関係、自己パロディ(“Usher”への)などの多様な視点から、多文化戦略的読解を施していくことによって、ポーのテクストが根元的に内包する、言語・文化・ジャンルの枠を越えて、潜在し、遍在していく力を、あらためて浮かび上らせようとするものである。
本作品には、精神病院を舞台とした、支配体制が転覆されていくドラマが記されるが、そのことはまた、ひとつの体制が壊れるときには、その体制に付随するドラマも同時に破滅する、ということを指し示してもいよう。この支配体制転覆のドラマを、登場人物である患者の幻想と見なしたとき、そこから、ドラマ(幻想)の破滅をめぐる、いかなる精神分析的考察が引き出せるであろうか。
フランス南部の精神病院に場を借りて、アメリカ南部奴隷社会を揶揄した本作品は、その舞台設定と題材の選び方において、同時代作家であるL. M. チャイルドを想起させる。古代ローマを舞台にしつつ、奴隷制を批判したチャイルドの『フィロシア』は、出版当時なぜかポーが絶賛した作品であった。チャイルドを足がかりにして考察を進めていくことは、ポーのこの不可思議な短篇の解釈に、新たな地平を切り開いてくれるだろう。
南部貴族主義者であり奴隷制擁護論者であったポーは往々にしてタールと羽根のリンチを再利用し、ブラックパワーを皮肉るブラックユーモアを放った。しかし、本作品をロマン主義時代の典型と見た場合に、エスニシティとセクシュアリティが巧妙に連動しつつ、異様な迫力をもたらしていることも、見逃すことはできない。
以上に加えて、なぜ舞台はフランスに設定されねばならなかったのか、先行者=ディケンズのいかなる像を読み取りうるか、はたまた、日夏耿之介編『奢灞都南柯叢書』の訳稿が本作品をいかように読み替えているのか、さらには、本作品の映像化が孕む問題などを、あわせて考察していくことにより、大西洋を、太平洋を、さらにはジャンルの枠を越えて、自在に逸脱しつつ増殖していく、ポーのテクストの生命の根拠を探し求めてみたい。