小林 愛明 青山学院大学(非常勤)
本発表ではRobert Lowell(1917-77)とHerman Melville(1819-91)の関係を、特にアメリカの人種差別と帝国主義の観点から追っていく。
メイフラワー号の乗員にまで遡ることのできる家系に生まれた詩人にとって、アメリカの歴史とはすなわち彼自身の歴史であった。しかし詩人がそこに見るのは多くの場合、アメリカの「負の遺産」である。初期の詩集Lord Weary’s Castle(1946)を読めばわかるように、そこには植民地時代から続くネイティブ・アメリカンの虐殺や第二次世界大戦におけるアメリカの帝国主義への批判を容易に読み取ることができる。このような詩人の姿勢は60年代に入ってからさらに激化し、劇の創作やベトナム反戦運動への直接参加へと結びついていく。大まかにいえば、詩人は詩のプライベートな空間からよりパブリックな空間へと道を開拓していったといえるだろう。
多くの批評家が指摘しているように、詩人が信奉していた特定のイデオロギーを探るのはほぼ不可能である。しかしその一方で、詩人がアメリカの抱える人種偏見や帝国主義に対して一貫した批判を行い続け、それを作品へと昇華してきたこともまた事実である。問題はそのような批判を行う際の詩人の詩的戦略だ。
彼の所謂「反戦詩」「反戦劇」を読むものは誰でもそこにNathaniel Hawthorne(1804-64)、Henry David Thoreau(1817-62)、Melvilleといったアメリカ・ルネッサンス期の作家たちが大きく姿を現すことに気づくだろう。元よりEzra Pound(1885-1972)やT. S. Eliot(1888-1965)、さらにニュー・クリティシズムの作家たちの影響から出発した詩人である。過去の作品に題材を求めつつ自己の作品を権威付けていくのは彼のいわば「お家芸」であり、作品の中で言及されていくのもひとえに彼らアメリカ・ルネッサンス期の作家たちだけにはとどまらない。
しかしこと「反戦」をテーマに選ぶとき、詩人が顕著なまでにアメリカ・ルネッサンス期の作家たちの、それもいわば「懐疑的」と呼ばれる作家たちの作品に題材を求めていくのは何故だろうか。詩人にとって過去の作品を「模倣」・「翻案」していくことは、作品を権威付けるという目的以上に、アメリカの過去と対話し、そこからアメリカの本質を導き出し、さらにそれを表現するための言葉を獲得する営みであった。その意味で詩人にとっての過去は同時に現在であり、過去の作品で使われた言葉は現在においても十分説得力を持ちうる言葉なのである。
詩人自らが公言しているように、彼の精神内でアメリカの帝国主義と象徴的に結びついたのはMiltonのサタンとMelvilleのエイハブであった。特にMelville作品からのイメージの借用は初期の詩集から一貫してみられるのである。これまでにも各批評家たちによって個別の作品に対する考察がなされてきた。しかし奇妙なことに詩人とMelvilleの関係を一貫して論じた者は誰もいない。今回の発表では詩人とMelvilleの関係をアメリカの人種差別や帝国主義の観点から検討しつつ、初期から後期へとわたって微妙に変容していくMelville像をも同時に考察していく。また後年になるにつれて『白鯨』は半ば沈降する形で作品から姿を消していくが、これを詩人の詩学的発展と関連付けて論じていくつもりだ。