原 成吉 獨協大学
Gary Snyderは、1955年10月にサンフランシスコのSix Galleryでビート・ムーヴメントの誕生を告げるポエトリー・リーディングをおこなった 翌年の5月に、日本へやって来た。そして1956年から1968年まで、おもに京都で禅仏教の修行と研究をしながら詩を書くことになる。この期間の体験をもとに、日本について書かれた詩はすでに100篇以上にのぼる。現在スナイダーは、アメリカにおける禅仏教の有力な指導者の一人であり、その功績は日本の仏教界でも高い評価を受けている。1998年には、宗派を超えて仏教の精神を広めた功績により「第32回仏教伝道文化賞」を受賞している。さらに2000年には曹洞宗大本山永平寺主催によるポエトリー・リーディングもおこなっている。
スナイダーが日本へやってくる直接のきっかけとなったのは、ニューヨークの the First Zen Institute of America との出会いにはじまる。「アメリカ第一禅協会」は、日本人の禅僧、佐々木指月(曹渓庵)(1882-1945)が、禅仏教の普及のためにニューヨークに設立した機関である。彼の死後、夫の遺志を継いだRuth Fuller Sasaki(1892-1967)は、大徳寺の後藤瑞巌老師のもとで禅を学びながら、当時の廃寺を再興し、外国人が禅を学ぶための機関として「龍泉庵」を設立する。財政的にも恵まれていたルース・ササキは、『臨済録』を英訳するための研究グループを組織した。彼女の呼びかけで、龍泉庵には、京都大学の入矢義高、柳田聖山、そしてコロンビア大学のBurton Watson、Philip Yampolskyといった中国文学者が集まり、原典の中国語から『臨済録』の英訳の仕事に携わっている。そしてルース・ササキと研究者グループの仲介の労をとっていたのが、アメリカ文学者、金関寿夫である。スナイダーは、ルース・ササキの後援により来日し、禅の修行と平行しながら龍泉庵でルース・佐々木のために仕事をすることになる。
今回の発表では、当時書かれたいくつかの詩作品をとりあげながら、UC デイヴィス校のSpecial Collectionsとニューヨークのthe First Zen Instituteに残されている未公開の往復書簡、そして詩人本人の証言をもとに、スナイダーにとっての日本滞在の意味を考えてみたい。