牧野 理英 日本大学
本発表ではKaren Tei YamashitaのThrough the Arc of the Rain Forest (1990)における超国家主義に関して論じていきたい。Yamashitaは1975年から1984年までのブラジル滞在中に、第二作目となるBrazil-Maru (1992)の原稿を手がけた。そしてブラジルでの文化人類学的実地調査に行き詰まったYamashitaは、歴史的小説Brazil-Maru を完成する前に、ポストモダニズム的な小説Through the Arc の原稿を書きあげたと後にインタビューで語っている。このようにジャンルの違う二つの小説を完成させた背景には、人々、文化そして製品等が資本主義の導入により国境を自由に行き来する超国家主義という主題を様々な角度でとらえようとしたYamashitaの姿がうかがえる。
歴史的史実に基づいたBrazil-Maruとは異なり、Through the Arc は近未来を思わせるブラジルの架空の土地、で繰り広げられる人々の飽くなき資本主義的欲望と、その結果引き起こされる自然破壊による破滅的終焉を描いた小説である。アメリカ資本主義がブラジルに導入されたことで生ずる超国家主義は、作品においてはマジックリアリズム的手法を使って浮遊と飛翔という二つの行動によって表象されている。幼少期の不可思議な体験以降プラスチックのボールを額の上に浮遊させている日系移民Kazumasa Ishimaruは、その身体的奇形ゆえにブラジルにおいて、国家という概念に順応することのない「浮遊した」主体となる。これに対し、同じく超国家主義を具現する登場人物達——Kazumasaの下宿しているアパートに住む伝書鳩を飼育する夫婦、野鳥の羽の魔術に魅せられる老人、Kazumasaの特殊能力に目を付け、国際的に活躍するアメリカ人ビジネスマンとその妻のフランス人鳥類学者、そして<天使>と呼ばれる巡業者など——は文字どおり飛翔する鳥のごとくその資本主義的欲望を世界に拡張していく。このような超国家的「飛翔」に対し、Kazumasaの「浮遊」は何を意味しているのか?
今日のアジア系移民の体現する超国家主義は、Aihwa Ongが指摘しているように、第三世界において自国のアジア的理論とアメリカ資本主義を組み合わせることにより世界進出を企てるという一面をもっている。それは西洋近代化をとりいれながらもアジア性を失わず、その経済的植民地主義によって世界を飛び回る新しいアジア系主体である。Brazil-Maru の中心人物である日系エリート、Kantaro Uno もこのような植民者としての超国家主義を具現しているといえよう。一方Through the Arc のKazumasa はKantaroのような超国家性をもちながらも前者のたどる破滅的な人生から逃れ、国境、人種、階級の壁を超えて最終的にはブラジル人で子連れの家政婦、Lourdesとの穏やかな愛の生活を見出す。本発表ではこの「浮遊」するKazumasaを新しい日系主体とらえYamashitaのThrough the Arc における超国家主義を解明していきたい。