堀 智弘 首都大学東京(非常勤)
Olaudah Equiano (1789)あたりを嚆矢としFrederick Douglass (1845, 1855, 1881)においてひとつの到達点に達したスレイヴ・ナラティヴには、奴隷市場において奴隷が白人奴隷所有者の貪欲なまなざしの対象となるスペクタクルが繰り返し描かれてきた。何人かの批評家がすでに指摘しているように、こうした奴隷の身体のスペクタクル化には絶えずアンビヴァレンスがつきまとう。理想的には、元奴隷であるスレイヴ・ナラティヴの語り手自身が意図していたように、それは北部の読者に向けて南部奴隷制の過酷な「真実」を伝えるものとなるだろう。しかしそれは同時に、奴隷の身体を、白人読者の興味本位な享受の対象として差し出す危険を冒すことでもある。いってみれば、市場経済における従属関係を、象徴交換の位相において図らずも反復してしまうのである。
この意味において、奴隷の身体のスペクタクル化という現象は、主流である白人文化といわば周縁的な黒人文化の交渉を再考する際のひとつの重要な焦点となるだろう。Eric Lottのことばを借りれば、このふたつの文化のあいだの関係を特徴付けるのは「愛と窃盗」(love and theft)(およびこの文化的窃盗という事実の否認)である。奴隷制は経済的搾取構造であるのみならず、社会的制度としての奴隷制が廃止されたあとにおいても継続的に文化的搾取構造を機能させるような文化的システムであった。スレイヴ・ナラティヴにおける奴隷の身体のスペクタクル化は、いかに語り手が対抗言説としてスレイヴ・ナラティヴを企図しようとも、それは常により大きな文化的搾取構造の内部にとどまるよりほかないというディレンマを徴候的に示しているといえる。
しかしながら、このことは抵抗が不可能であるということを意味するものではない。仮に奴隷市場においては奴隷の身体が奴隷所有者と読者の一方的な享受の対象となっていたとしても、スレイヴ・ナラティヴは、奴隷が奴隷制といういっけん全的な支配システムの間隙を縫って最終的には奇跡的に自由を獲得するさまを描いてきた。この点において、Harriet JacobsのIncidents in the Life of a Slave Girl (1861)は最も注目に値する証言といえよう。奴隷でありしかも女性であるといういわば二重の社会的ハンディキャップを負ったJacobsは、彼女をしつこく迫害する奴隷主のプランテーションのまさに内側、同じ奴隷である親類の小屋の屋根裏に7年間にわたって潜んだのちに自由を獲得した。この潜伏期間のあいだ、Jacobsはかつて自分を常に監視してきた奴隷主を、屋根裏の覗き穴から逆に監視することで奴隷主の探索を逃れることに成功する。こうしてJacobsは、奴隷の身体のスペクタクル化におけるような一方的な見る/見られるという関係を反転させる。さらに読者に対しても、情報の隠蔽という戦略を積極的に用いることにより、テキスト上に屋根裏的な抵抗の空間を作り出す。本発表では、こうしたJacobsの抵抗を、主にスペクタクル的な空間構成の交渉という点から再検討してみたい。