東京大学 平石 貴樹
ドライサーとショパンは,ともに自然主義時代の作家であるが,批評的関心のへだたりからか,あまり結びつけて議論されることが多くなかった。ショパンを自然主義に位置づける場合でも,「本能」や「欲望」などの語彙に,通りすがりの注意を向けることが,これまでの常道だったように思われる。だが,『シスター・キャリー』は,単なる自然主義小説ではなく,「気分」と「感覚」にしたがって生きる現代人を描いた点で,二〇世紀小説の起源の一つと考えられる。そうであれば,おなじように「気分」「感覚」を重要視したショパンの『目覚め』は,ドライサーとの重要な共通点によって,やはり起源の地位を獲得する資格を有するだろう。しかもそうなると,「気分」と「感覚」は,ときおりドライサーに即していわれているような,資本主義社会の消費者の欲望や衝動,といったものに直に結びつけて説明されるのではなく,もっと本格的,全面的な人間像の変化(現代化)によって説明されねばならない。そしてその変化が,あらためて現代社会の様相に還元されるべきものであるとすれば,『目覚め』のエドナがブルジョワ夫人であったことが,重要な設定上の要素として,あらためて注目されねばならないのかもしれない。……というような小説史の整理を,これら二冊の作品をめぐって試みることによって,両者の共通の,格別な意義を確認することが,ここでの当面の目標ということになる。