東京大学 諏訪部浩一
William FaulknerはいくつかのインタヴューでMark Twainに言及し,あるときには好きな小説のキャラクターとしてHuck FinnとJimをあげている。そこでTom Sawyerのことはあまり好きではないとわざわざ付言していることをふまえてみるとなおさらのことだが,FaulknerがHuckとJimを「ペア」にして気に入っていたという事実は,先行作家への敬意がその「南部」的な文脈から切り離せないことを示唆するように思える。
Faulkner作品における白人少年と黒人の「ペア」としては,Intruder in the Dust のCharles MallisonとLucas BeauchampがAdventures of Huckleberry Finn に触れながら考察されることが多いのだが,ここではむしろGo Down, Moses におけるIsaac (Ike) McCaslinとSam Fathersの関係について考えてみたい。Samという人物は,Ikeを「神話」的世界へと誘う精神的「父」としての「インディアン」としばしば見なされてきたが,南部的「現実」においては,4分の1混血の黒人奴隷女性を母に持つ彼は,何よりもまず「黒人」のはずである。だとすれば,Samを「インディアン化」して神話的文脈に据えてしまうのは,奴隷制/人種差別という南部の現実を抑圧隠蔽する態度になりかねないのではないだろうか。そして本発表においては,他ならぬIkeこそがそうした態度を取ることを確認していきたいと思う。
そのような作業をおこなうための有益な「参照枠」となるように思われるのは,The Adventures of Tom Sawyer からHuck Finn にかけて作家Twainが出会ってしまった「現実」である。Injun Joeという「インディアン」には,Tomの冒険を普遍的=非歴史的な「少年文学」とする役割が課されているのに対し,Huckの冒険が「リアリズム文学」の嚆矢と見なされる理由の1つが「黒人」Jimの存在にあることは疑いない。もちろんHuckにおいても,Tomが出てくることでJimはステレオタイプ化され,作品は「少年文学」として強引に幕が引かれることになるが,それでもHuckがJimという<他者>と出会ったという事実は消えない。まさしくHuck の結末が小説的には破綻しているところに,Twainが邂逅した「現実」を見ることは可能なはずである。
Faulknerは別のインタヴューにおいて,Twainの書いたものは「小説」ではないと述べている。この発言を詳しく検討する余裕はないかもしれないが,Twainが出会った「現実」を後発作家Faulknerは「小説」としてドラマタイズしていると論じることで,Faulknerを「Twainの文学的遺産」の正統な継承者として考えてみたい。