森 瑞樹 大阪大学(院)
August Wilsonは, “Pittsburg Cycle”としてアフリカ系アメリカ人の20世紀を10年単位の全10作で作品化した。しかし,「壮大な歴史絵巻」と謳われながらも,Wilsonのサイクル劇構想の根底にあったものは, 歴史的事実を詳細に綴ることではない。例えばFences (1985)での「天国の扉」やJoe Turner’s Come and Gone (1987)での「肉体を再生させる白骨」等,バロック芸術を彷彿とさせる叙事的幻想表現や,観客の視覚的想像力を喚起させるSF的表現を織り交ぜながら,サイクル劇は展開してゆく。このような史実とは乖離するフィクション性がサイクル劇において強調される所以は,Wilsonが,歴史以上に文化,芸術に強い関心を示し,60年代の黒人芸術運動の“Black is Beautiful”というテーゼの表現に尽力したところによるものが大きい。そしてこれら想像的表現は,先行研究の多くで,アフリカ系アメリカ人のアイデンティティやコミュニティ概念と結びつけられて論じられてきた。
そこで本発表では,アイデンティティ論を展開した先行研究を踏まえ,黒人芸術運動に基づくWilsonの理念と劇作を1つの文化表象として理解し,サイクル劇,ひいてはアフリカ系アメリカ人文学のさらなる可能性を追求する。
検証すべき問題の核となる点は大きく区分すると,(1)Wilsonがその芸術=演劇に求めたもの,(2)その目的遂行のための戦略,以上2点である。1つめは,芸術創造の源泉となる価値体系を作り上げることは叶うのか,という問題について。つまり,ルネサンス,バロック以前からの絵画や音楽等の伝統的西洋芸術に底流している価値体系を生み出した聖書に換わるべきものを,20世紀以降のアフリカ系アメリカ人が作り上げることは可能か,という疑問である。そして2つめはWilsonの芸術性追求の戦略についてである。現代アメリカの資本主義社会の渦中,「個人の情動の発露」でもあるサイクル劇において,アフリカ系アメリカ人の価値体系=原風景/原体験を如何に表現するのか。この現代芸術と資本主義の戦略的関係性を考察する。
これまでのアフリカ系アメリカ人文学は,「対白人という転覆的/政治的メッセージの発信」,もしくは「極めて道徳的な融和理念の教示」というように二極化しがちであった。上記の問題を検証してゆく過程で,他のアフリカ系アメリカ人の作家が実践してきた「メッセージ性の追求」とは異なる「現代的芸術性の追求」というWilsonの方法論的転回を検証する。そしてその方法論的転回に,従来のアフリカ系アメリカ人文学の保守的構造を打破する力,またアフリカ系アメリカ人を新たな合衆国の文化的コンテクストに位置付ける力が潜在していることを明らかにする。扱う作品は,1900年代と1990年代という20世紀の始めと終りを描き,Wilson自身がサイクル劇の「ブックエンドの両端」と呼んだ,最終2作Gem of the Ocean (2003)とRadio Golf (2005)が中心になるだろう。