穴田 理枝 大阪大学(院)
これまでしばしばAugust Wilsonの演劇作品は黒人男性の視点で描かれ,女性は周縁に置かれたままであると非難されてきた。しかし周縁化された黒人男性の更に周縁に黒人女性が置かれたままであるという舞台設定の中でこそ,その2重の周縁化そのものの持つ意味が前景化されるという議論もある。1969年という時代設定のTwo Trains Running は,August Wilsonのサイクル劇の中でも女性の登場が特に少ない作品である。舞台に登場する唯一の女性であるレストランの従業員Risa,舞台には登場しないが重要な役割を占めるAunt Ester,またはそれぞれの妻や母についての男達の発言に注目し,黒人女性の周縁性がどのように表現されているかをふまえつつ,女性史的視点からアフリカ系アメリカ人の男女関係について論じる。
白人の築いたジェンダー規範のもと,奴隷としてさらにその規範の外に置かれてきたアフリカ系アメリカ人の男性は,それ故に,男性性=白人男性性という認識を強く刷り込まれ,家父長制による家庭の「大黒柱」として生きることこそが白人男性とも対等に生きることであるとの意識を持つことになった。折しも舞台は1960年代,公民権運動とともに第二波フェミニズム運動が広がりを見せた時代,このような男性支配に反発した女性達が結婚,家族,異性間の性関係に異議申し立てをする。黒人女性にとって,市民権を得ることは人種・ジェンダー規範の両方により縛られてきた生き方から開放されるというより大きな意味をもつ。この男女の認識の差異が両者のすれ違いを産む。
「母親崇拝」の言説に縛られ自己犠牲に基づいた母親像を演じることは,黒人女性が自ら選択し,意志決定したものではない。しかし「母親崇拝」の言説を内包する家父長制の枠内での「大黒柱」を目指す黒人男性にとっては黒人女性自身が生き方を選択し,意志決定するということなど思いも及ばない。その一方で黒人男性自身も「母親崇拝」の呪縛にとらわれ,母親からの開放を求めてもいる。お互いにジェンダー・ロールに縛られてがんじがらめになった家族関係から抜け出すには,逃走かまたは死しかない。
肉体的に早熟であった為に早くから男達の視線にさらされたRisaは両脚にカミソリで傷をつける。彼女はその傷を男達の目にさらすことによって,彼らのもつジェンダー規範に対しNoをつきつけている。また,店に集う男達に積極的に関わろうとしないRisa は男達を客観的に見るアウトサイダーでもある。そしてRisaがレストランの男達にとってのアウトサイダーであるなら,彼らの悩みを聞くAunt Esterはピッツバーグの黒人居住区のアウトサイダーである。しかも322歳であるという彼女は時空を越えたアウトサイダーとして,街のアフリカ系アメリカ人を観察し続ける人物であるということになる。
本作品においては,黒人女性達は単に核心から遠ざけられているのではなく,時代の流れを周縁から見守る役割を担っているとも考えられる。このような物語構造にも注目し,男女それぞれの眼差しにどれほどの視差があるのか,その視差が生み出すものは何なのかを中心にAugust Wilsonの他作品も参照しつつ探る。